59. かわいそうな男の話 1
その男は本来何不自由なく幸せになれるような男だった。
公爵家の一人息子。母親の体が弱く兄弟はできなかったが、男には跡取りとして十分な素質もあった。少々ナイーブな一面もあったが、それも平和な公爵領では問題にならない程度だ。
好きな女もいた。家同士の関係も良好で、婚約さえしていないものの普通にしていれば結婚するものだと……ああ、そうだな、悪かった。こんな話はきっと、あんたの方が詳しい。
分かった。男が十五歳の頃――あの戦争が始まった頃から話を始めよう。
侵略戦争だった。
長年大きな諍いもなかった隣国からの突然の侵略。もちろん、シェルヴァ公国は国境を接する領地として十分な戦力は蓄えていた。それでも準備の整った隣国に、突然攻め込まれた戦争経験の乏しい公国軍は相手にならない。
ブリジア王国に援軍を要請するも、跳ね除けられる。そのせいか他の家門からも消極的な援助しか得られない。唯一味方になったハリディ男爵家は、……残念ながら、大した戦力にはならない。ハリディ男爵の交渉のおかげでバリー侯爵領から援軍を得ることはできたものの、戦況は依然として苦しかった。
戦争が始まった当時、男はまだ十五のガキだった。剣の腕もあり、戦略も学んでいたが、実戦経験のないガキだ。
初めて自分の手で人を殺し、目の前で仲間が殺された。自分の立てた戦略で自国の騎士が死ぬ数が変わる。父親と共にとはいえ、男はそういう判断をしなければならない立場にいた。
穏やかだった男は荒んでいく。仕方がない。戦場というのは人の命がただの道具になる場所だ。幼い頃男に剣を教えた師に、生き残れる可能性のない局面で殿を命じなければならない時もあった。そう。あの優しい男が、だ。
――さて、戦争開始から二年後の話をしよう。
鉱山が見つかったことで援軍も得られるようになり、その頃には戦況はどちらに転ぶか分からないと言われる程持ち直しを見せていた。
そんな時にあるプレゼントが届いた。それが――ランドルフ侯爵家の援軍だ。
男の父親は怪しんだ。ランドルフ侯爵家はグレイ公爵家を見捨てた王国と非常に結びつきの強い家門だ。それが今さら援軍だなんて、何か裏があるに決まっている。
断ろうとする男の父親に、反対したのはある一人の騎士だった。
その騎士――仮にAとしようか。Aは、騎士にしては気弱な男だった。
Aは戦うことよりも、うまく怪我をしない方法を考える方が得意だった。男が剣を教わり始めた頃、初めに上手い受け方を教えてくれたのがAだった。
そう、その騎士だ。あんたも何度か遊んでもらったことがあるだろう。Aは子どもが好きだったからな。あんたらのお遊びにもよく付き合っていた。
Aは男の父親にランドルフ侯爵家からの援軍を受け入れるように願った。
戦況が持ち直しただなんて言われていても、二年間で戦果なんて言えるものはほとんどない。このまま何年戦い続けなければならないのだろう。その結果、絶対に勝てるなんて言い切ることもできないのに。
Aには子どもがいた。まだ五歳の、可愛い女の子だ。自分が生きて帰らなければ、子どもは父親を知らずに育ってしまうことになる。
Aが泣きながら訴えると、他にも続く者たちが出てきた。早く帰りたい、生きて帰りたい、何人かの男たちが涙を流した。
情けないと思うか? 訓練を受けた騎士が涙を流すなんて。……そうだな。皆が皆、本当に強いわけじゃないから。
Aのように弱音をこぼす者たちは少数派だった。切り捨てられる程度の人数だ。
けれども男は――人の感情に寄り添ってしまうような、そういう弱点があった。
男は父親に、援軍を受け入れるよう進言した。持ち直してきた戦況、戦後の鉱山の所有権や王国貴族たちとの関係を考えて、シェルヴァ公国を支援した方が利があるとランドルフは考えているのだろう。未だ終焉が見えない状況で、今ランドルフの援軍を得ることは戦争を勝利に導く鍵となるに違いない、と。
父親は悩みはしたが、それでも息子の判断を信じることに決めた。
――ああ。男も父親も、戦場にいながらまだこの世に存在する悪意の底を知らなかったんだ。
それからすぐに戦況は好転していった。
ランドルフ侯爵家の援軍は実によく働いてくれた。戦争経験が豊富な者も多くその立ち居振る舞いは騎士たちの参考になり、少しずつ希望も見えてきた。
案外気がいい奴も多くてな。大きな問題もなく公国軍に溶け込んでいったよ。
そうしてさらに二年後――戦争開始から四年。
戦争はシェルヴァ公国の勝利で終戦を迎えた。
隣国の降伏を受け、講和交渉の流れを決め、援軍たちを解散させた後、公国軍は本邸へ帰還することになる。その道中、ささやかな宴が開かれた。
残った物資と僅かな酒で、皆が勝利を祝った。酒が入れば、騎士たちも涙脆くなる。泣き、笑い、歌い、宴会は盛り上がっていく。
男は公国の跡取りだ。
隣国との講和交渉の準備や、支援者たちへの報告、領地の復興。本番は今からと言っても過言ではない。
男は父親と向かい合い、そういう今後の話をしていた。けれど、宴会の場だ。多くの騎士が二人の元に挨拶に来る。酒を注がれれば飲み、また新しい者が来る。酒に酔いはじめ、難しい話は明日以降にしようと決めた頃、一人の騎士が訪ねてきた。――そう、Aだ。ランドルフ侯爵軍の受け入れを願った、あの騎士。
Aは震えていた。その唇は紫で、今にも吐き出しそうなほどだ。
男の父親は飲み過ぎだと諌めながらも、Aに寄り添った。男は、その光景を後ろから見ていた。
異様な光景だった。
三歩歩み寄った父親は、四歩目の途中で不自然に足を止めた。数秒、時間が止まったように見えた。男は不審に思い一歩近付く。そうして気付いた。父親の足元に血溜まりが出来ていたことに。
男の父親は声を上げることもなくその場にどさりと倒れた。
賑やかだった宴会の声は、世界から音が奪われたかのようにぴたりと止んだ。




