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57. 傷

 目が覚めると、一人、見慣れたベッドの上にいた。


 閉められたままのカーテンの隙間から陽の光が細く入っている。私はこの光景を見たことがあった。エドワードが私の元を訪れることのなかった、あの初夜の日と同じだ。心が空っぽになる。


 扉が開く音がした。少しして、カーテンが開けられる。急に眩しくなって、頭が痛んだ。小さく呻くと、カーテンをくくりつけていたアデルは私が彼女の陰に入るように数歩左に寄った。


「昨晩はお疲れ様でした」


 アデルの言葉に笑いそうになる。お疲れ様なんて、まるで仕事をした者への労いじゃないか。

 間違いではないのかもしれない。昨日のことは全て、私に与えられた仕事だったんだ。


「お湯の準備ができております。入られますか」


 無意識に自分の腕に触れた。そうして自分の体が綺麗であることに気付く。汗と、涙と、吐き出した水と、とにかくもっと汚くてもいいだろうに、そういう汚れは何一つ残っていない。


「昨晩、あなたたちが湯に入れたの?」


 アデルは首を振った。


「おそらく、公爵様かと」


 心臓が針で刺されたように痛くなった。みっともなくて、泣きたくなった。


「……いいわ。一人で休みたいから出ていって」


 彼女から顔を背けて言った。声と一緒に何か苦しい塊が上がってきて、すぐに涙になった。肩が震える。我慢をしても、嗚咽が漏れる。


「……お身体への負担も残っておられるかと思います。ゆっくりとお休みください」


 アデルはそれだけ言って部屋を出ていった。


 残された私は一人ベッドに倒れ込む。周りに人なんていないのに、声を殺して泣いた。苦しくて、叫び出したかったけれど、もっと惨めになりそうで怖かった。


 全部忘れたかった。

 生まれてから今までのこと、全部。涙と一緒に記憶も流れていけばいいのに。そう思った。

 私の願いが叶ったことなんて一度だってなくて、むしろ、子どもの頃のことばかりが頭に浮かんだ。


 時間は残酷だ。日が沈む頃には涙が涸れた。

 体を起こす。ナイトテーブルに水桶とタオルが用意されていた。朝、アデルが持ってきたものだろうか。

 タオルを濡らして目の上に乗せると、醜く腫れた瞼が冷やされて気持ちがよかった。こうしていればいつかは痛みにも慣れるかもしれない。


 慣れる、ですって。鼻で笑う。

 もう、分かっていた。私がどれだけ泣いたって、叫んだって、死にたいと思ったって、世界は何も変わらない。痛みに慣れて生きるだけ。ずっとそうやってきた。分かってる。分かってるわ。


 ノックの音がした。アデルが戻ってきたのだろうか。体を起こして訪問者を待つ。数秒後、開いた扉の奥にいたのはエドワードの補佐官だった。


「旦那様がお呼びです」


 もう、嫌になる。


「行かないって伝えて」


 補佐官はぴくりとも動かなかった。私に選択権なんてないのだと知らしめるようだ。なんでこんな扱いをされなければならないのだろう。……今さらだ。これも慣れた痛みの一つだ。


 嫌々立ち上がる。歩き出す補佐官の後ろをついていく。何度かふらついて倒れそうになった。倒れればエドワードに会わなくていいと、そう思っている自分に気が付いた。気付いてしまうと、どう動こうにもわざとらしくなってしまう。馬鹿みたいに左右に体を揺らしながら歩いた。


 エドワードの執務室までつくと補佐官は扉をノックした。中から低い返事が聞こえたのを確認して扉が開けられる。死にたいな。そう思った。逃げるよりも、死んでしまいたかった。


 一歩踏み入れた薄暗い部屋には頼りなく灯りが灯っていた。部屋の奥にいるエドワードの顔に影が掛かっていて、表情が見えない。


 補佐官は黙って礼をして部屋を出て行った。扉が閉まる音が虚しく聞こえた。執務室には私とエドワードだけが残される。


 逃げたいのに、足が震えて逃げられなかった。今度こそ本当に倒れそうだった。


 どれくらいの時間、沈黙に耐えたのだろう。エドワードが息を吸う音が聞こえた。エドワードはそのまま大きなため息をつき、机の上、何か資料のようなものを指先でとんとん、と叩いた。


「……自白剤に似たものだそうだ」


 肩がびくりと動いた。それは動物の反応のようなもので、理解は遅れてついてくる。


 自白剤。……ああ、昨日の。


 別に、何を盛られたのかなんてどうでもいい。興味がない。そんなつまらない話のために呼ばれたのかと思うと、恐怖は苛立ちに変わった。


「私から何か役に立つ情報は取れましたか?」


 嫌味を言ったつもりだったのに、声が震えて情けなかった。エドワードは笑いもせず、また、黙った。


 この部屋は執務室のくせにあまりにもうるさい。

 時計の秒針、外で吹く風、ガタつく窓。耳鳴り、衣擦れ、不規則に鳴る、私の心臓。

 全ての音が、私を苛立たせる。


 なんのためにこんなところに呼び出したの。腹の奥がくつくつと激っていく。全身の毛が逆立つ気がした。


 これ以上用事がないなら、部屋に戻らせてよ。

 言おうとした瞬間、エドワードがゆっくりと顔を上げた。


「……君の身体に」


 影になっていたエドワードの顔が部屋の灯りに照らされる。炎を移したグレーの瞳が、わずかに、揺れた。


「君の身体の傷は誰がつけた」


 ――体中に血が巡っているのが分かった。どくんどくんと跳ねながら、私の怒りを増幅させる。

 唇が震えた。唇だけではない。全身が、震えていた。


「……まさか、本当に私が暢気に暮らしていると思っていたんですか? 本当に、好きで侯爵家の養子に入って、好きであなたと結婚したと? 私の意思であなたとの子を望んでいると?」


 怒りが収まらず、獣みたいな息をはいた。目の前の男を罵る言葉が溢れそうになる。殴りかかってやりたくなるのを、拳を握りしめて抑える。それでも収まらず、指を強く擦り合わせた。


 エドワードは右手で額を押さえた。私はまた、この男がどんな表情をしているのか、分からなくなる。

 息を吸う音。一秒後、低い声が響く。


「俺は、君を」


 ――信じることはできない。この先、一生。


 いつかの言葉が浮かんだ。

 金属の擦れるような音が、私の理性を切り裂いた。


 右足で床を強く踏みつけた。地響きのような音が鳴る。

 エドワードははっと顔を上げた。どんな表情をしていてもいい、関係ない。その顔に、吐き捨てるように言う。


「勝手にしてください」


 後ろを向く。扉を開ける。そのまま廊下を走り出す。早く、早くここから逃げ出したい。逃げ出したい。


 後ろで執務室の扉が閉まる音がした。

 私を止める声が聞こえることは一度もなかった。

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