54. 毒
「……オフィリア?」
空気の震えがぞわりと駆け上がった。それだけで苦しくて、小さな呻きが漏れる。
声の主がゆっくり近づいてくる感覚がした。狭い部屋だ。足音はすぐに私の側まで着いて止まった。
「……会場から走り去るのが見えたから追ってきたが、大丈夫か?」
カーティス王子が心配そうに私の背中に触れた。途端、皮膚の上を電気が走って、私の中心に向かう。
ああ、いやだ。刺激に耐えるために、唇を噛んだ。
「……毒を盛られたのか」
カーティス王子の声は先ほどよりも低かった。
私は首を横に振る。汗で落ちた髪が頬を掠めた。
「毒じゃないのか。症状を教えてくれ。何を盛られたか分かるかもしれない」
カーティス王子が私の髪を掬った。指先が耳に擦れ、私の口からは出したことのない声が漏れる。
こんな声、聞かれたくなかった。
恥ずかしさと、情けなさと、怒りと、全部が混ざって、頭がぐちゃぐちゃになる。
「……ああ、なるほど」
カーティス王子は私の反応を見て、私が何を飲まされたのか分かったのだろう。分かったのなら、早く出て行ってほしい。そう伝えようにも口を開けばまたあの声が出てしまいそうで、何も言うことができなかった。
「こういう薬は耐えるだけつらくなる。早く発散させた方がいい。……やり方は分かるか?」
カーティス王子の問いかけに、私はまた、首を振る。
発散なんてしなくていい。死ぬわけじゃないなら、辛くても耐えればいいだけだ。
頭に浮かぶ言葉と裏腹に、体は熱を増していく。
苦しくて、息を吐いた。力が抜けて、波打つように腰が震える。ソファを握りしめる手に力を入れれば、布が擦れて全身に痺れが走った。
意識がぼんやりとしていく。目の前がチカチカして、気を失いそう。けれど正気を手放そうとすればすぐに私の体が快感を拾い上げる。
ああ、苦しい。理性が、落ちてしまいそう。
「君が許すなら、手伝おう」
――え?
急に現実に引き戻される。
顔を上げると、ぼんやりとした視界に真面目な顔をしたカーティス王子が映った。
この男は今、何を言ったのだろう。手伝うとは、なんのことだろう。
私の疑問を汲み取ったように、カーティス王子は続ける。
「言っただろう、俺が君を抱くことに何の問題もないと」
それは、彼がまだ私を騙そうとしていた頃に言った台詞だ。うまく働かない頭に、それでも怒りが込み上げてくる。
まさか、この男は私の状況を利用しようというのか。薬で発情した女なら、簡単に自分を求めると?
私はカーティス王子を精一杯に睨みつけた。瞼が震えて熱い。その熱に耐えられずに、じんわりと涙が浮かんでくる。瞬きを一つすれば、いとも簡単に零れおちた。
友人だと言っていた。全てを信じたわけではなかったけれど、私だって彼といるのを楽しく思う瞬間もあった。それなのに、この男はまた私をスペアを産むためだけの女にしようとしている。
ぼたりと、音がした。ただ音に反応する動物のように視線を下げれば、ソファに小さな染みができて、そこだけ色が変わっていた。悔しくて、虚しかった。
ふと、下瞼がひんやりと冷たくなった。カーティス王子の指が、私に触れていた。
触るなと言うために顔を上げると、カーティス王子は私の文句を跳ね除けるように言った。
「俺は君を好ましく思っている」
彼の指先が、私の瞼をなぞる。そのまま滑るように頬を撫でた。
ゾクゾクとした快感が私の中から怒りを押し出した。その気持ちよさに、何も考えられなくなっていく。
「初めて会った時とは違う。隣にいるのが君であればいいと、何度も思った。……嘘じゃない」
冷たい指が気持ちいい。
私は無意識にカーティス王子の手に頬を擦り付けていた。カーティス王子の指は私の顎まで滑り、そのまま優しく持ち上げる。
目が合った。エメラルドの瞳が熱を持って私を見つめていた。
「君が断るなら、手を出さない。けれど俺を信頼してくれるなら、君の熱を冷ませる役を任せてほしい」
――毒だ。痺れるような、甘い毒。
熱を冷ませば楽になるのだろうか。顎を優しく撫でられる、その気持ちよさに体がぶるりと震えた。ふと、いつか、この男が森の中で毒にやられていた姿が頭を過ぎった。
「……て」
私の声は掠れて音にならなかった。
カーティス王子は首を傾げて、毒のように甘く囁いた。
「リア、もう一回言って」
息のかかる距離。私は唾を飲み込み、口を開いた。




