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51. 間諜

「ねえ、あなたの組織は人員の募集はしていないの? 日の当たらない仕事なら、ランドルフ侯爵家からも隠れられるんじゃないかしら」


 ヒューは訝し気に私を見た。私がふざけているわけではないとわかると、今度は我慢できないと笑い出す。


「……ははっ! 何を言うかと思えば!」

「そんなに笑うこと? 私、あなたみたいに身軽に動けないけど、間諜とかは? 結構向いてると思うんだけど」

「公妃様は向いてないよ」


 あまりにもきっぱりと突き放されて、私は少し不機嫌になる。待たせている負い目があるからか、ヒューは「ごめんって」と言って、それから頬を掻きながら口篭った。


「そりゃ、女の間諜だっているさ。だけど公妃様は、なんていうかなぁ……」

「興味があるわ。聞かせて」


 私は前のめりになる。

 知らない世界の話だ。私にとって楽しい話になるかもしれない。


 ヒューはまだ、んーとか、そうだなぁ、とか、言いたくなさそうに呟いた。けれど私が期待をしているからか、諦めたように息を吐いた。


「仕事のできる間諜っていうのは、もっと地味な女なんだ。目鼻立ちは悪くないが、どこか冴えない」

「そうなの? 意外だわ。そういう人がどうやって情報を聞き出すの?」

「あー……」


 ヒューは下を向いて、頭を掻く。


「そういう女は、地味だけど……色気がある。目立たないくせに、妙に惹かれる。何度抱いてもちっとも心が埋まらない。それどころか余計に手に入れて、支配して、甘えて、この女のために狂ってしまいたいと思う。こちらが何かを差し出せば、この女が自分のものになるのではないかと、全てを話してしまいたくなる――間諜に向いているのは、そんな女だ」


 ヒューの声はいつもより低く、妙に生々しかった。話を聞いているだけなのに緊張して、私は生唾を飲み込む。


「それは、確かに、……私には向いていないわ」

「だろう?」


 ようやく目が合ったヒューは、居心地の悪そうな表情をしていた。普段飄々としている彼が戸惑う姿は珍しい。


「ねぇ、私は? どんな女に見えるの?」


 もっと困らせたくて聞いたのだけど、私の目論見は叶わず、ヒューはいつものように鼻で笑った。


「公妃様は、お転婆すぎる」


 お転婆。およそ貴婦人に使うべき形容ではない。


「あなた、社交界でも美しいと羨まれる私に向かってよくそんなことを言えたわね」

「ははっ! たまにお嬢ちゃんって呼んだ方がいいのかと思うくらいだ」

「失礼よ」


 ヒューは楽しそうに笑った後、不意に試すように顔を傾げた。


「でも公妃様、男を誘惑なんてできないだろう」


 誘惑。私のことをねっとりとした視線で眺める男たちのことを思い出す。私に心があるなんて思いもしない男たち。


「ほら、考えただけで不機嫌になる」


 図星を突かれて、私は何も言えなくなった。こんな私に間諜なんて、務まりっこない。


「でも、そうだな。そういう方法も覚えた方がいいかもしれない」


 ヒューは独り言のように呟いた後、真面目な顔をした。


「公妃様。俺たちは公妃様が安全に過ごせる場所を探しているけど、それでも危険な目に遭う時がくるかもしれない。平民として生きるということは、そういうことだ」

「……ええ、それはもう、十分感じているわ」


 今だって、おかしな人たちに好かれてしまいがちなのだ。最悪だと思っていたけれど、私が貴族だから最悪と思う程度で済んでいたかもしれない。


「で、どう対処すればいいの? 教えてくれるんでしょう?」


 ヒューは真っ直ぐと私の目を見つめた。二つの満月が、私を導くように照らした。


「最後まで高貴であり続けること」


 思っていたような回答と違って、私は眉を顰めた。


「どういうこと?」


 ヒューは変わらぬ口調で答える。


「公妃様のような女が涙を見せるのは逆効果だ。高貴な女の涙は、男の嗜虐心を煽る」

「気持ちが悪い」

「ああ、だがそれが現実だ」


 現実。私はもう、何度もその現実とやらに立ち塞がれてきた。自由も、安全も、尊厳も、どこにでもあるものではない。


「すぐに殺されるようなら諦めろ。対応しようがない」


 逃げられもしない現実に鳥肌がたった。

 誤魔化すように顎を上げてヒューに続きを促すと、ヒューは頷いて続けた。


「ただ、もし相手が公妃様を仕留めることが目的じゃない場合、……どれだけ屈辱的なことをされても、気丈でありつづけるんだ。何をされても自分は全く汚れていない、傷ついてもいないという顔をする。誰も自分を傷つけることなどできないと、そういう顔をしろ」

「そうすれば、飽きて開放してくれるの?」

「いいや、違う」


 ヒューは顎に手を置いて、考えるように上を向いた。


「狙うのは、そうだな……主犯格ではなく、そいつらの言うことを聞いている男。例えば、見張りだ。悪事に加担しているのに当事者意識が薄く、自分のことを純粋だと思っている。そういう男をターゲットに選べ」

「そんな男いるの?」

「いない場合もある。いれば幸運だ。気丈な女がある日、自分の前だけでぽつりと本音を呟くんだ。ひとり言のような本音を。純粋な男は、苦しめている立場にも関わらず公妃様を助けたいと思うはずだ」


 そこまで言って、ヒューは急にいつもの調子に戻った。


「全部理想論だけどな。人間は単純じゃないし、現実はうまくいくとは限らない。そもそも訓練を受けたわけでもないのに気を強く持ち続けるなんて、簡単にできることでもない。ま、そういう手もあるくらいに覚えておけばいいさ」


 私は想像する。牢屋のような場所に閉じ込められた自分。果たしてヒューの言う通り、気丈になんて振る舞えるのだろうか。

 勇敢な私が巧みな話術で牢屋から脱出するところまで妄想して、馬鹿らしくて、考えるのをやめた。


「少し気がまぎれたわ、ありがとう」


 私はベッドに横たわった。夜はもうすっかり更けきっている。


「遅くなったとしても、難しくても、逃亡先の調査は続けてちょうだい。どうせあなた以外に頼れる人なんていないんだもの。大人しく待つわ」

「悪いな。公妃様が幸せに過ごせる場所を探したいと思ってるんだ。……本当に」


 幸せに過ごせる場所。そんなもの、あるのだろうか。


 目を瞑って、見知らぬ土地で過ごす自分に思いを馳せる。誰かの感情を気にすることもない、安全で、自由な生活。


 そこには強くて、賢くて、自由な私がいた。

 頭の中でなら、何にだってなれるのだ。

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