50. もう、いやだ
蹄の音に集中していた。軽快なそれはだんだんと間隔が空いていき、ついには止まる。数秒後、ドアが開けられた瞬間、私はエスコートを待たずに馬車から降りた。そのまま振り返ることもなく歩き始める。
早く、早く。頭の中で繰り返す。それでも染みついたプライドが貴婦人の振りを続けさせた。今さら何が品位だ、あれだけ焦って馬車から降りたくせに。うるさい、うるさい、静かにして。私をこれ以上、惨めにさせないで。
屋敷に足を踏み入れる。一目散に寝室へ向かう。足音に機嫌が現れないように、つま先から降りて。
視界の端にシャーロットが映った。私を見つけた彼女が、声をかけようと口を開く。私は気付かぬ振りをして、体を返す。早く、早く。
一直線の廊下。人の気配は感じない。
寝室に近づくにつれ、足が急いた。もつれそうになりながらも、右、左と、とにかく前へ、進んでいく。早く。
そうしてやっと部屋に入ると、私は走り出して、ベッドに飛び込んだ。
うつ伏せのまま、毛布に顔を押し付ける。頭が痛い。うう、ううと唸りながら、右手で笛を掴んだ。勢いに任せてひと吹きする。音もならない笛が腹立たしく、投げ捨ててしまいそうになる。必死で堪え、代わりに潰れんばかりに握り締めた拳で何度もベッドを殴りつけた。
いやだ、もう、いやだ。
何も考えられないように、その言葉だけを繰り返す。いやだ、もう。助けて。いやだ。いやなの、もう。
私の願いに応えるように、部屋に風が吹き込む。バルコニーから寝室に入ってきたヒューに、私は噛み付くように叫んだ。
「まだ見つからないの!? いつまで待たせるつもりなのよ!」
声と一緒に、今まで私の中で何かをせき止めていた栓が外れてしまう。目の奥がじんと痛んで熱となり、涙となってこぼれ落ちた。
一粒。たった一粒だったはずのに、堰を切ったように次々とあふれ出す。
ヒューは黙って私を見ていた。哀れむ表情が、余計に私を惨めにさせる。何か言ってよ、私の声は喉に詰まって、ただのうめき声になる。あ、あ。苦しい。
「……ごめんな」
ヒューの声音が優しくて、私はもう、本当に自分が嫌になった。責めてくれれば、もっと怒鳴れたのに。
三度、小さく咳き込んだ。そうして体を起こし、ベッドの淵に座る。改めて深呼吸を一つ。空気が流れ込んで、少しだけ冷静になれそうな気がした。
「八つ当たりよ。……ごめんなさい」
己の幼稚さから目を逸らしたくて、私は咳が出る振りをしながら、右手の甲で口元を隠した。
「待たせてしまっているのはこっちだ。他の客ならもっと早く怒ってる」
ヒューは言いながら、私に一枚の紙を差し出した。受け取って見てみると、それは何かのリストだった。
「なによ、これ」
「逃亡先候補と、調査結果だ。途中経過だけど」
「……見てもいいの?」
「いい知らせじゃない。それでもいいなら」
私は頷いて、そのまま報告書を確認した。
上段には、候補国の選定基準が記されていた。ランドルフ侯爵家との関わりがない国の王都。外国人の女が、一人で生きていける国。下のリストに目を映す。
A国。領地戦が頻発し、事実上の内戦状態。それに乗じた略奪、暴動などが各地で発生し、著しく治安が悪化している。
B国、C国、D国。冷害による飢饉が昨年より続いている。各国対策を練っているが、回復の兆しなし。
E国。市民革命の予兆あり。王国軍が大量の銃を購入し、武力による市民の弾圧を目論んでいると情報あり。
F国。統治者が異邦人排斥、鎖国政策を推進。異邦人への暴行事件が急増している。
G国。入国経路である海上交通が不安定。南方海路では海賊被害が多発し、旅客船、貨物船ともに標的となっている。
H国。奴隷合法国。身寄りのない異邦人が攫われ奴隷となる例も多発している。
I国。移民の受け入れに寛大な一方で入出国管理が厳重。身分を隠し入国するのは困難。
「……随分と、治安が悪い」
「ああ。逃亡が現実的な距離にある国で、ブリジア王国と国交が結ばれていない国で絞ると、どうしてもそうなる」
私は現状を認めたくなくてヒューを問い詰める。
「国交が結ばれている国の王都を除外したのは、ランドルフ侯爵家が私を探し出すことができるから?」
「ああ、そうだ。公妃様は逃がしたままにしていられない程には、多くのことを知りすぎている」
「王都に限定したのは? 友好国でも、田舎に隠れていれば見つからないんじゃないかしら」
「見つかりはしないだろうが、問題がある」
「問題って?」
ヒューは言いたくなさそうに顔を歪めたけれど、すぐに口を開いた。
「あんたは……女だ。それも、若く、美しい。一人で無事に生きていけるとは、到底思えない」
それは、私が商人のクリスに抱いた疑念と同じだ。――この顔でよく愛人に召し取られなかったものだ。それは、女であれば尚更。
「でも、どんな場所にだって女の人はいるはずよ。他の女の人が暮らせているのに、どうして私は無事ではいられないの」
「ああ、どんな田舎にも女はいるだろう。でもな、そいつらと公妃様は決定的に違う」
ヒューは子どもに現実を教える親のように、諭すような声を出す。
「そこで生まれ育った女の側には、大抵男がいる。父か、兄弟か、夫か、息子か。そういう男の所有物であれば、他の男は手を出せない」
「……所有物って」
「大袈裟じゃない。異邦人の女が田舎で一人で暮らすのは……とにかく俺は、そんなところに公妃様を放り出したくない」
想像しただけで恐ろしく、体が震えた。男の所有物でなければ、生きていけない場所。所有者のいない私が受けるだろう屈辱。
「今はあんたの後ろ盾になりそうな男を探している。いくつか候補者はいるが、……悪いがもう少しだけ、待たせることになると思う」
私はなんと返せばいいか分からなかった。ヒューや彼の所属する組織に文句を言うべきだろうか。代金だけ取って適当な場所に放り出しだりしないことを感謝するべきだろうか。
……どちらを選んでも、現実は変わらない。
「あーあ、もう、嫌になる」
私は仰向けに寝転がった。視界を覆う無機質な天井が閉塞感を助長する。八方塞がり。ここにもいたくない、逃げることもできない。世界はちっとも優しくない。
「……話を聞くことはできる」
ヒューの方に顔を向けると、やっぱり苦い表情をしていた。私は再び天井を見上げる。
「ううん、いい。余計惨めになるだけだもの」
「……あの夫婦は」
「やめて。もう、今日のことは考えたくないの」
無理矢理に話を遮って、ヒューに背を向けるように体を転がした。考えたくない。……思えば思うほど、思考が引っ張られる。あー、あー。考えないように、頭の中を埋め尽くす。あー、あー、あー。だめだ、意味がない。
私は体を反転させた。もしかして帰ったかもしれないと思っていたヒューは、だけど変わらずそこにいた。
「ねぇ、なにか楽しい話をしてくれない?」
私が話しかけると、ヒューは困ったように肩を上げた。
「楽しい話って言ってもなぁ」
「ないの? 例えば、そうね。あなたの組織の話とか?」
「楽しいような場所でもないだろう。日の元にも出られない仕事だ」
「そう……」
適当に相槌を打っているうちに、思いつく。それは、案外楽しいんじゃないかと思った。
私は勢いよく体を起こし、ヒューにその思いつきを投げかけた。




