5. 情報屋 2
口にすると、その恐ろしさに胸が震えた。同時に今まで感じたことのない高揚感が私を包み込む。
ずっと苦痛だった。
私をいないように扱う夫。折檻する王妃様。私の周りには私を監視する人ばかりで、どこにいたって窮屈だった。
私はエドワードと離婚して、自由になりたかった。それが私の、たった一つの願い。
「姿を消したい、ね」
情報屋は私の言葉を繰り返した。
この依頼を、受けてはくれないのだろうか。彼を説得するように、私は説明を重ねる。
「だって、普通に離婚しようとすると、殺されるでしょう、私」
「あのサディストの王妃に?」
「知ってるの?」
「ああ、知っている。だからあんたが逃亡したい理由も納得できる」
私は少しだけ安心した。
そうして情報屋の気が変わらないうちに畳み掛ける。
「王妃様に見つからない逃亡場所と方法を調べて。見つかり次第、私は離婚状を置いて逃げる。……エドワードは私と離婚したいだろうから、私のサインさえあればあとは全部やってくれるはずよ」
「分かった。契約完了だ」
拍子抜けするくらいの即答。
どうも軽く感じるこの男を、どれだけ信用すべきだろうか。先ほど去った不安がもう一度頭をもたげた。
だけど、すぐに正気に戻る。信用しようがしまいが、私には彼を信じる以外の選択肢なんてないのだ。
「それで? 私はただ待てばいいの?」
「そうだな、基本は待てばいいが」
情報屋はごそごそと服の中を探ったかと思えば、私に向かって何かを投げた。
「ほら、これ」
「わっ」
危うく受け取ったのは、小さな筒。……笛?
「なにこれ」
「吹いてみな」
言われた通りに口をつけ息を吹き込むと、ただ空気が通る音だけが響いた。肺が疲れるほど繰り返しても面白いくらいに無音だ。
「鳴らないわ」
遊ばれたのかと不満気に情報屋を見ると、情報屋は自分の耳をとんとんと叩いた。
「俺にだけ聞こえるんだ、耳がいいから。ちゃんとピーピー鳴ってたさ」
「ほんとうに? 不思議ね」
「俺が必要な時はそれを鳴らすといい。進捗確認でも、新しい依頼でも、なんでも。俺はあんたの近くにいるから、すぐに行くよ」
「近くにいるの? 情報を集めに走り回ってくれるんじゃないの?」
情報屋は私の無知を鼻で笑った。
「あんた、あのマゾヒストから本当に何も聞いてないんだな。俺たちは組織で動いているんだ。簡単に出せる情報ならその場で答えて終わりだが、そうじゃないなら手付金を受け取って、情報収集班が動く。俺は情報を出せるまで、あんたの御用聞きになる」
「ふーん、そういうものなのね」
私は彼の話を聞きながら、衣装棚からトランクケースを取り出した。中を開くと、色とりどりの宝石が乱雑に詰め込まれている。その中でも大きいダイヤを二つ取り出して、情報屋に差し出した。
「手付金、これで足りる?」
「お、勘違い野郎どもが貢いだ宝石だな」
「……あなたなんでも知ってるのね。気味が悪いわ」
「なんでも知ってるよ。あんたが払えるものがそれくらいしかないこと」
わざと私が不愉快になる言い方をしていて、嫌になる。
これは、男たちが貢いできた宝石だ。私を金で買おうとした男たちの欲望の塊。
結婚してからすぐはそういう贈り物も減ったのだけど、私がエドワードと不仲だという噂が広まってからはむしろ、質の悪い男たち……つまり、金持ちの老人や女を侍らせる男からの贈り物が増えた。
男たちは夫に冷遇され価値の落ちた私なら自分でも好きにできると思っているらしい。醜悪さに吐き気がする。
だけど、情報屋の言う通り、私の好きにできる財産なんてこれくらいしかないのも事実だ。
「ねえ、あなたのことも教えてよ」
自分のことばかりが知られているのが気に食わなくて、私は投げやりに聞いた。適当に流されるだろうと思っていたが返事は返ってこず、怪しんで見ると、情報屋はお月様の目をまんまるにしていた。
「俺のこと?」
「え? ええ、そう。なんでもいいけれど……例えば、あなた、名前は? 私の御用聞きなら今後もあなたと話す機会があるんでしょう? 情報屋さん、なんで呼びにくいわ」
何かまずいことを言ったのだろうか。情報屋は暫く黙って俯いた。そんなに嫌なら別に言わなくていいんだけど、と言いかけたところで、情報屋は口を開いた。
「ヒューだ」
「そう、ヒュー」
口にすると、案外呼びやすい。身軽な彼に似合っている。
私はトランクケースの鍵を閉めて、顔を上げた。
「ヒュー、もう帰っていいわ」
「なんだ、急につれないな」
「早く窓を閉めちゃいたいのよ」
それに、痛み止めが効いているうちに少しでも早く眠りにつきたかった。
ヒューはまだ何か文句を言っていたけど、私が追い出すように窓際に行けば大人しく従った。バルコニーに出ると、ひょいっと軽い動きで近くの木に乗り移る。
「会いたくなったらいつでも笛を鳴らすといい。じゃ、またな。」
ヒューはそう言ったきり、夜の闇の中に溶けるように消えて行った。
***
ふくらはぎの傷は数日もすると瘡蓋になった。痛みはマシになったが、どうも痒くて、動く気にもならない。
仕方がないと外にも出ずに自室で本を読んでいると、乱暴なノックの音が響いた。
タウンハウスの使用人は私に対して当たり前に無礼な態度を取る。私の部屋を訪ねてきた彼女もそうだ。ノックの返事を待つこともなく私の部屋に入ってきて、挨拶も前置きもなく言った。
「仕立て屋が到着いたしました」
不愉快だったけれど、こんな扱いには慣れている。ここの主人であるエドワードが私を冷遇しているのに、今さら彼女たちに仕置きをしようとも思わない。
私はドレスを整えて、メイドの案内するままに応接室に向かった。
応接室では、色とりどりのドレスを広げた顔なじみの仕立て屋が待っていて、私が来たことに気づくと頭を下げる。
「お久しゅうございます、グレイ公爵夫人」
「久しぶりね。私、何か頼んでいたかしら」
「夫人のご注文ではないのでしょうか。公爵閣下より本日窺うように仰せつかったのですが……」
エドワードが? この三年間、彼が仕立て屋を呼んでいるのを見たことがない。彼のスーツはいつも、私のドレスを仕立てるときに合わせて注文しているというのに。
怪しんでいると、後ろから低い声が届いた。
「俺の客に何か用か」