49. 湖の底
乗馬から戻った二人を、グレンダ様は立ち上がって迎えた。私も真似をし、立ち上がる。
「おかえりなさい。楽しめたかしら」
「ああ、いい時間を過ごせたよ。君は? 体の調子はどうだい」
「ええ、この通り」
「それはよかった。向こうにボートの乗り場があった。十分休めたなら、どうだ、行ってみないか」
「まあ、行きたいわ!」
私はいいですね、とか、ぜひ、とか返したと思う。頭がうまく働かなくても、表面だけの社交に慣れた体は勝手に動いてくれる。
そうして気が付けば桟橋にいた。
先にボートに乗ったバリー夫妻が湖の上からこちらを見ている。目の前には、私に手を差し出すエドワード。私は手を取り、ボートに乗り込む。
一時間後に、と聞こえた。一時間、私はエドワードと二人で向かい合うのだろう。――何のために?
私もエドワードも、バリー夫妻に私達の不仲を気付かれたくなかったからこんなところまでやってきたはずだ。それなのに夫妻は最初から私たちの関係を知っていた。知られているのに、どうしてこんなことをしなければならないのだろう。
ボートが揺れる。体が浮くような感覚に私だけがついていけなくて、気持ちが悪くなる。
頭を上げてみる。一瞬、エドワードと目が合ったかと思えば、すぐに逸らされる。もう全部が嫌になって、俯いた。
視界の隅に湖が映る。覗き込むと、辛気臭い顔の女が湖の底から私を睨みつけていた。いつの間にこんな顔をするようになってしまったのだろう。瞬きをすると、女の顔がゆらりと揺れて、子どもの顔になる。不自由なんて知らない私。
ふと、幼い頃、エドワードと二人でボートに乗った日のことを思い出す。
ハリディ男爵領の端にある、小さな湖。
一緒に来た大人たちから離れて、二人で桟橋に走った。舟番に子どもだけでは乗せられないと止められたけれど、私たちは言うことを聞かずに乗り込んだ。
最初はただ二人、湖の上で揺られるのを楽しんでいた。
やんちゃ盛りだ。すぐに飽きて、私は湖の水を掬ってエドワードに掛けた。驚いた表情をするエドワードがおかしくて笑い転げると、仕返しだと水を掛け返される。
そんなことの何が楽しいのか、今はもう分からない。それでもあの頃は、二人でふざけ合う時間が幸せだった。
一頻り笑いあったあと、私はもっとたくさん水を掛けてやろうと、両手を水の中に深く入れた。興奮した子どものことだ、加減なんて分からない。あ、と思った時には、湖の中に落ちてた。
鼻と口に水が入り込んで、苦しくて、息を吸おうとすると余計に水を飲み込んで。もがいていると、誰かが私を抱きしめた。――エドワードが私を追いかけて、湖に飛び込んでくれたのだ。
服を着て泳ぐ練習なんてしたことがなかった私たちは、結局二人で溺れてしまったのだけれど。
舟番に助けられた私たちは、駆けつけた両親にひどく怒られた。子どもだけでボートに乗ったこと。ボートの上でふざけたこと。それに、エドワードが溺れた私を助けようとしたこと。
助けられる力がないのなら、必ず大人を呼びに行かなければならない。そうしなければ、結局二人とも溺れてしまうのだよ。そう諭されたエドワードは、最後まで不貞腐れた顔をしていた。
私は巻き込んでしまったことを申し訳なく思いながらも、エドワードが後先考えることなく助けようとしてくれたことが、たまらなく嬉しかった。
……馬鹿みたいだ。こうやって、私ばかりが思い出に浸って。
記憶を掻き消すように、湖面を引っ掻いた。私の顔も、ぐちゃぐちゃになる。二度と映らないよう、そのまま指先を沈めた。
痺れるくらい冷たい水。冷えた血液が、私の腕を伝って上がっていく。数秒後、心臓の凍る音がした。高く不快なその音は、私から思考力を奪う。
――もし今、私が湖に落ちれば、この男は同じように助けてくれるのだろうか。
きっと私は、今度こそ一人で沈んでいく。助かろうと足掻くこともしないだろう。ゆっくりと、静かに湖の底に落ちるのだ。
音もしない水底から見る景色は、美しいのだろうか。
揺れる湖面に誘惑される。湖が指先から這い上がってきて、私を引き摺り込む幻覚を見た。幻覚ではないのかもしれない。確かに今、私は何か私を呑み込もうとする何かを感じている。この何かに身を任せれば、楽になれるだろうか。綺麗な水の中で、何も言わず、何も考えずに終われるのだろうか。
ずぶり。誘われるままに、体の力を抜いた。
「……っ!」
不意に、左腕に強い痛みを感じた。滲んでいた意識がだんだんと現実に戻ってくる。
私を掴んだ手はひどく震えていた。私のものではない拍動を感じ、その速さにつられるように私の心臓も脈打っていく。
「……なん、ですか」
恐る恐る振り向いた。
私の腕を掴んだエドワードは、目を見開いたまま、浅く息をはいた。震える唇が、ゆっくりと動き出す。
「……君がまた、落ちてしまうんじゃないかと」
――ボートの上。私は溺れたように息ができなくなった。




