48. 不自由
羨む。その言葉がどうもしっくりこなくて、何度も繰り返す。羨む、羨む。美しく、権力もある侯爵夫人が、田舎の男爵令嬢を?
「……お気遣いいただきありがとうございます」
体の震えを抑えやっと答えた私に、グレンダ様は「違うわよ」と笑った。
私は何を思っていいのかが分からなくて、ただ、グレンダ様をじっと見る。グレンダ様は黙る私を咎めることもなく続けた。
「女性が馬に乗るなんて、品位の欠けた見苦しい行為。子どもだからと言って許されることではない。私はそう言われて育ったの。私だけじゃないわ。皆、そう習ったはずよ」
おそらく、そうなのだろう。
私が女でありながら馬を与えられたのはハリディ男爵家が変わっていただけだ。現にランドルフ侯爵家に養子入りしてからは、一度も乗馬を許されたことがない。
「悔しかったの。私がそうやって諦めてきたことを、目の前の少女は簡単に許されるなんて。どうしてそんなことが認められるの? たった三十年。三十年生まれるのが遅ければ、私もこの子のように自分の馬を持てたの? それとも、爵位が低ければよかったの? 悔しくて、憎くて、おいおい泣いたわ」
グレンダ様は顔を歪め、わざとらしく泣き顔を作った。茶目っ気の奥に、抑圧された女の苦しみが隠しきれずに現れる。胸の奥が苦しくなって、私はぎゅっと拳を握った。
「次の日にね、あの人に呼び出されたの」
グレンダ様は一転して、昔を懐かしむような、愛おしむような声を出した。
「私は泣き叫んだことが恥ずかしくて断ったのだけれど、どうしても来いと言われて嫌々行ったわ。手を引かれてついていくと、馬小屋の前、そこには立派な馬がいて。あの人ね、君がやりたいことがあるならやればいいと。そう言って、私に乗馬の先生までつけてくれたの。……恥ずかしくてあなたには言えなかったけれど、実はあれから、何度も乗馬をしたのよ」
「……素敵なご夫婦ですね」
頭の中で歪められていたバリー侯爵夫人がゆっくりとグレンダ様の顔を取り戻していく。厳しくも愛情深い侯爵夫人。私が懐いていた、優しいおばあ様。
「あなたのお陰よ。あなたがあの日、私に自由を教えてくれなかったら、私はきっと凝り固まった意地悪なおばあさんになっていたわ」
グレンダ様は少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。微笑んだまま、少しだけ、低い声で言った。
「だから私は、あなたが今こんなにも不自由な状況であることが、たまらなく悔しいの」
――え?
息をのんだ。少し遅れて、心臓の音が耳元で響く。
私が、不自由な状況? 一体、何の話をされているのですか。
否定をしようと口を開く。けれど、私の誤魔化しは声になる前にグレンダ様に跳ねのけられた。
「息子から聞いたわ。あなたたちの仲が決していいものではないこと。あなたが邸宅にいらしたときにはもう知っていたの」
グレンダ様の声がだんだんと遠くなっていく。頭がふらついて、それでも倒れてしまわないように、必死で腕に力をいれる。
知られていた。私たちが、『仲のいい夫婦』ではないことを。私が――私が今、どんな生活をしているのかということを。
「騙すようなことをしてごめんなさいね。でも私、黙っていられなくて。どうにかあなたの力になりたいと思ったのだけど、……お節介だったかしら」
お節介だなんて、そんな。気を遣わせてしまいましたね。私こそ、お二人を騙すようなことをして申し訳ございません。
そんなことを言った気がする。声に出ていなかったかもしれない。分からない。頭が痛い。
「……アドルフ様も今、夫に何か伝えているのでしょうか」
今度は妙にはっきりと聞こえて、私は顔を上げた。自分の声に驚くなんて間抜けにもほどがある。情けない私とは対照的に、グレンダ様は先ほどよりもはっきりとした口調で言った。
「私たちとあなたは十分に知り合った仲ですけれど、グレイ公爵のことはよく知りませんもの。よく知らない人に説教をできるほど耄碌してはおりません」
きっと私は、わかりやすくほっとしたのだろう。グレンダ様は「余計な事を言ってしまったみたいね」と呟いた。
「余計だなんて……あの、ご厚意は嬉しいのですが、ただ、私たちは……」
「あら、戻ってきたみたい」
グレンダ様は私の言い訳を遮って、視線を林の奥に向けた。つられて顔を向けると、馬に乗った男性が二人、ゆっくりとこちらへ向かってくるのが見える。
ああ、――帰ってきてしまった。
「もう少しだけ、私のお節介にお付き合いいただけるかしら」
私はグレンダ様の顔を見ることができなかった。
過去の私を知る人の前で、嘘だと知られながらも、エドワードと夫婦として過ごす。そんな時間に、たまらなく――吐き気がした。




