47. 湖
王都から馬車で一時間。そう聞いていた湖畔は、私にとって何十時間にも感じた。
斜向かいに座るエドワードからは終始威圧感が漂っていて、キャビンの中は水で満たされたように息苦しかった。
誰が湖が近くにあるだなんて話をしたのよ。過去の自分を諫めては謝って、そうやって気を反らすのを繰り返す。
苦しい時間を耐えきって、馬車は止まる。ドアが開けられた瞬間、キャビンに満ちていた水がどっと流れ出るような感覚がした。空いた隙間に、木々を通り抜けた空気が流れ込む。やっと息ができると思ったのは一瞬で、私に手を差し伸べるエドワードを前に私はまた息を止めた。
幸運なことに、二人の時間は長くは続かなかった。すぐにバリー侯爵家の馬車が到着し、夫妻と落ち合う。グレンダ様は薄水色のドレスにつばの大きな帽子を被られていて、それが驚くほどよく似合っていて、ご令孫のセンスに感服せずにはいられなかった。
私たちは挨拶を交わし合うと、予め準備されていたテーブルに向かった。夫妻は腰を下ろすとすぐに、疲れたように深く息を吐いた。
「すまないね。この年になると、移動のあとすぐには動けなくてな」
「いえ、遠いところまで御足労いただきありがとうございます。ゆっくり休憩していきましょう」
私が答えると、夫妻は返すように笑った。
涼しい季節とはいえ、雲間から降り注ぐ日差しは鋭い。アドルフ様はグレンダ様の右肩がパラソルの影から出ているのに気付いて、従者に耳打ちした。従者によってパラソルの角度が変えられると今度はアドルフ様に日が当たるようになったけれど、アドルフ様は満足気だった。
「療養先では体調のいい日にはよく遠出もしたのよ。王都に来てからは少し張り切ってしまって。その疲れが出たのかもしれないわ」
グレンダ様が恥ずかしそうに言った。
「ご令孫ともお出かけされたのですか」
「ああ、たまにね」
エドワードの質問に、お二人はご令孫との思い出を話し出す。やんちゃ盛りの六歳の女の子。王都についてくるのは初めてらしく、すぐに走り出してしまうから大変だ。そう笑うお二人はやさしいおじい様、おばあ様の顔をしていた。
「さて、と」
一頻り話をしたあと、アドルフ様はエドワードの方を向き言った。
「公爵閣下は乗馬は得意か? 久しぶりに自然の中を駆けたくなった」
エドワードは一瞬言葉を詰まらせた。アドルフ様の体力を心配したのだろうか。アドルフ様はそれを無礼と断ずることなく、明るく笑った。
「なに、走り回るわけじゃない。私も年だからね」
「……でしたら、ええ、お供いたします」
立ち上がりながら、アドルフ様は私達に向かって「君たちはまだ休んでいなさい」と促した。私とグレンダ様は立ち去る二人の背中を見送った。
そうして彼らが見えなくなったころ、私は自分の身体から力が抜けていくのが分かった。
左半身が力んでいた。エドワードが声を出す度に、私の体の中に何か錘のようなものが積み重なっていくのだ。私以外の人がいれば話せるのねなんて嫌味なことを考えたり、そうやって拗ねていることを悟られないよう笑ったり。そうすることに、疲れていた。
「ごめんなさいね、私に付き合わせてしまったかしら」
グレンダ様の声に、顔を上げる。ああ、気遣いをさせてしまった。そう反省していると、グレンダ様はいたずら気に笑った。
「あなたも馬に乗りたかったのではなくて?」
ちらりと林の方に視線をやる。乗馬をするにはもってこいの天気だ。けれど、私はご冗談をと笑った。
「乗馬は紳士たちの趣味ですから」
男に交ざって女が乗馬をするなんて、はしたない。子どもの頃は許されていたけれど、私はもう自由に振る舞える立場ではない。それに今、私の身体には馬に乗って走れるだけの筋肉もない。
「あら、……そう」
グレンダ様はなぜだか、少しだけ落ち込んだように相槌を打った。
私はなにか間違ってしまったのだろうか。気詰まりのする空気の中、グレンダ様はまっすぐに私の目を見つめて言った。
「ねえ。初めて会った時、あなたは私に白い馬を紹介してくれたの。覚えているかしら」
グレンダ様の言葉に遠い昔を思い出す。
まだ、子どもだった。社交界どころか、母から習う礼儀だって聞き流していた。父母は私を自由に育てる方針だったのか、私の不勉強を強く咎めることはなかった。
父が初めてバリー侯爵一家を紹介した日。
祖父母が早世した私にとってバリー侯爵夫妻の年代の方と話すのは初めてで、年上のお兄さんたちにも偉ぶりたかった。興奮していたのだと思う。私はその年の誕生日に父に買って貰ったばかりの馬を見せびらかした。白くて美しい馬。宝物を知ってほしかったのだ。
これ、私のお馬。今、お馬に乗る練習をしているの。すごいでしょう。
そんなようなことを言った気がする。すごいわね、もう馬に乗れるのね、なんて、褒められると思って。
けれど、グレンダ様の反応は私の期待していたものとは真逆のものだった。
あの日のバリー侯爵夫人は驚き、呆れていた。眉根を寄せ、扇子で口元を隠し、早くそれを戻してきなさいと言ったのだ。
グレンダ様は今の穏やかな姿からは想像ができないほど厳しい方だった。当たり前だ。侯爵家の夫人として社交界の頂点に君臨されていた方だ。私のような田舎の娘は無礼に感じたことだろう。
「礼儀も知らぬ子ども頃のことです」
私は目を伏せる。
恥ずかしい過去だ。掘り返されて気持ちのいいものではない。
グレンダ様は少しの間黙って、それからまた、昔話を続けた。
「そうね。あの頃のあなたは、礼儀なんてなにも知らなかった。だから私、帰りの馬車であなたの文句を言ったの。あんな子のところにもう連れて行かないでって。あんな田舎娘がいるなんて聞いていない、私はもう、絶対に一緒に行かないわ、と」
思い出が、少しずつ滲んでいく。記憶の中の私を指導するグレンダ様の顔が、いつかの王妃様と重なった。醜い子。二つ足の獣なんていたかしら。人の言葉は話せるようね。ひどく訛った、だらしのない言葉ですけれど。
ああ、謝らなければ。そうしてドレスを持ち上げて、鞭うたれる準備をしなければ。
心臓が強く脈打つ。嫌な汗が噴き出てきた。浅い息。俯いて顔も上げられない私に、グレンダ様の声は優しく響いた。
「ごめんなさいね。私、子どものあなたを羨んでいただけだったの」
冷たい風が、のぼせ上がった私の頬に吹きつけた。




