46. 背負うべき義務
賑わう酒場の扉を開ける。ここを訪ねるのは今夜で二度目だ。たった一度来たことがあるというだけで、幾分か慣れた感じがする。
「らっしゃい! 好きな席に座って!」
あの夜と同じ店主の声。そう遠い過去の話でもないのになんだか懐かしい。
店内を見渡す。すぐに目につくブロンドの髪。私は彼のところまで行くと、後ろから声を掛けた。
「お兄さん、お隣よろしいですか?」
「ああ、来たか」
冗談に付き合う気はないようだ。私は隣に座りながらカーティス王子に文句を吐き出した。
「夜の街は一人で歩くには危険なのではないですか」
この男がそう言ったのだ。それなのに今夜、この店に来るよう呼び出したのもこの男だ。私の安全なんてどうでもいいのだろうか。
睨みつけると、カーティス王子は一蹴するように笑った。
「どうせ護衛がいるんだろう。イグラドの情報を流したやつと同じか?」
はい、そうです、よく分かりましたね。私は情報屋を雇っていて、あなたの国の情報も、この店まで連れてきてもらうのも、全部彼に頼みました。……なんて、言うわけがないじゃない。
カーティス王子も本当に聞きたかったわけではないのだろう。私が答えなくとも気にした様子もなくジョッキに口をつけた。
私は店主にビールを頼む。銅貨を五枚。カウンターに置くと、すぐにビールに変わる。
「それで、何の御用でしょう」
運ばれてきたジョッキをカーティス王子に向けて差し出すと、カーティス王子は飲みかけのビールをそのまま私のジョッキにぶつけた。ガツンと鈍い震えが響く。
「用がなければ呼び出してはいけないのか。友人だろう?」
にやりと笑う。その美しい顔がどうも、胡散臭い。胡散臭いけれど、どうでもいいとも思う。彼が友人だと言うならそうなのだろう。
考えるのをやめてビールを呷った。苦みと爽やかさが喉を滑り落ちていく。
「最近は、夫君とは仲が良いようだな」
雑談にしては話題選びのセンスがない。不満を伝えるように睨むと、カーティス王子は前を向いたまましれっとした顔で続けた。
「共に観劇をしていたそうじゃないか」
「どうしてそんなことをご存知なのですか」
「あの場に俺もいたからだ」
この男は今度はどこの令嬢を騙そうとしているのだろう。呆れて、机に肘をつく。
「随分とロマンチックなデートをされていらっしゃる」
カーティス王子は私の嫌味に視線だけ返すと、またすぐに正面を向いた。
まさかそんな話をするために呼び出したわけではないでしょう。そう思ったけれど、彼はそれ以上何も言わなかった。仕方なく、私は口を開く。
「観劇はいかがでした?」
カーティス王子は吐き出すように笑った。
「くだらない話だったな。義務を果たすよりも、たった五日間過ごした女と死ぬことを賛美するとは」
嘲笑する彼を前に、以前、まだこの男が正体を現す前に言っていたことが頭を過ぎった。
たった数時間話しただけの男のことは信用ならないと言う私に、それが運命だと説き伏せる。あの演技の裏で彼はなにを考えていたのだろうか。向かい合う私たちがお互いにくだらないと感じていたなら、運命だなんて言葉で口説かれるよりもよっぽどいい友人になれたかもしれない。
「なんだ」
私の無言が気に障ったのか、カーティス王子は今度こそ私の方に顔を向けた。私は彼の機嫌を損ねるのも煩わしく、適当に口を動かす。
「いえ、夫も似たようなことを言っていたなぁと」
「それはそれは。夫君とは気が合うようだ」
「友人になれるかもしれませんね」
「遠慮させていただこう」
あまりにもすぐに言い切るものだから、私はつい笑ってしまう。
そうして息を吐いたからか、少し気が緩んだ。いつもの癖でこの男を警戒していたけれど、こうして探るように話すのも億劫だと思っていたところだ。
体の力を抜いてジョッキの中のビールを眺める。劇場で飲んだシャンパンよりも主張の強いこの液体を見ていると、なんだかそれだけで酔いそうになる。
「同席した方は、貴族の義務は人間性を犠牲にしなければ果たせぬものなのか、と仰っていました」
「人間性、か」
カーティス王子はなにか思い出したように目を開いた。
「エストラシア王国のスラヴェナ王女の婚姻の話を知っているか」
「エストラシア?」
唐突な話題に、私はゆっくりと頭を働かせる。
エストラシア王国。ブリジア王国から見て遠く南西の方向に位置する小国だ。十年ほど前に大国の支配から脱し、その後徐々に力をつけてきている。
スラヴェナ王女は現国王の十三番目の子だ。かの国が独立して間もなく発表された彼女の結婚に驚いたことを覚えている。
「確か、平民の方とご結婚された」
「よく知っているな。ブリジア王国とはあまり関わりもないだろう」
彼の言うとおり、エストラシア王国は地理的にも離れており、国交も結ばれていない。この国の貴族でもエストラシアの時事を知っている者は少ないだろう。
それでも――。
数年前、まだオフィリア・ランドルフだった頃、エストラシアの言葉を、政治を学んだ日々があった。大国の支配から脱し力をつけている小国。かの国について学ぶことがシェルヴァ公国の独立やその後の政策に役立つのではないかと考えていたのだ。
結局私はグレイ家に嫁いだあとも政治に関わるような立場にはなれなかったのだけれど。
こんな話をするわけもなく黙りこめば、カーティス王子は何を悟ったのか追及することなく話を続けた。
「君も知っているかもしれないが、エストラシアは独立後多くの改革を行っている。そのひとつが教育改革だ」
「皆教育を導入されたとか」
「ああ。そうして初めて平民から登用した官吏とスラヴェナ王女が結婚した。そのラブストーリーは国民を沸かせ、エストラシアでは二人を主役にした歌劇が作られたそうだな。直接的な影響を受けているかは分からないが、その頃から各国で貴族と平民の恋愛を題材にした歌劇が増えているように思う」
確かに、身分差のあるラブストーリーが流行し始めたのはここ数年だ。と言っても、先日の歌劇の結末は貴族同士の恋愛だったのだけれど。エストラシアの恋物語を知らないこの国の貴族たちにとっては平民との恋愛は感情移入しづらいものになる。そのために実は貴族同士であったという結末にしたのかもしれない。
「いいではないですか。身分を超えた愛。貴族のままで、だけど人間性を犠牲にもせずに愛を選ぶ。美しい話だと思いますよ」
私の適当な返事を、カーティス王子は鼻で笑った。心底つまらなそうに息を吐く。
「プロパガンダだろう」
夢のない男だと思う。だけど、私も同じことを思っていた。
「平民でも努力すれば官吏になれ、美しい王女様と結婚することもできる。平民たちに夢を見させ、意欲を掻き立てる。その犠牲になったのが十三番目の王女様だ」
「それが貴族の義務ならいいことじゃないですか。実際、エストラシアでは改革の成果もでてきている」
「一方で、反対する貴族もいる」
「ええ。席数は変わらないのに奪い合う人が増えるわけですから」
「それだけではない。教育の成果によっては平民でも政に関われるというのなら、貴族の特権の意味が問われてしまう」
だからこそ貴族制度を風刺するような歌劇が上演されては毎度批判に合うのだろう。貴族の特権と義務。教育を受けた平民の官吏。アドルフ様の言う『犠牲の出ぬままに続く制度』。なんだか話があちらこちらに行ってしまって、私は何を話していたのか分からなくなる。
カーティス王子もそう思ったのか、「とにかく」と話をまとめた。
「とにかく、彼女たちの演出されたラブロマンスは本来教育改革のプロパガンダだったが、意外なところに飛び火しているということだ。平民からは身分制度の懐疑、逆に若い貴族からは義務を逃れ自由をと望む声もでてきている。……平民が自由だというのは彼らの思い込みに過ぎないだろうが」
自由。私はまた、よく分からなくなる。
平民になれば自由になれるのだろうか。私は貴族の地位を捨ててでもこの国から逃げるつもりでいたけれど、逃亡先がなかなか見つからないのはやはり、平民の生活が私の想像を超えて困難なものだからだろう。ヒューの言うように、飢え死にしたり、年寄りの愛人になったり。
ふと、思い出す。カーティス王子と初めて出会った日。私は商人のクリスに対して、この整った顔でよく貴族の愛人に召し取られなかったものだと思っていた。
本当は分かっていたのかもしれない。私たちから見て自由に見える人たちは、守ってくれる制度もない、危険と隣り合わせの生活をしているということに。
それでも、と。考えずにはいられない。
私はカーティス王子の横顔に問いかける。
「夢見たことはないのですか?」
「夢?」
カーティス王子は私と目を合わせ、眉間に皺を作った。私はその深い皺の向こうにある彼の人生に思いを馳せる。
「もし王族に生まれなければ、……このような運命を背負うことにならなかったと。そう、思うことはありませんか?」
「ないな」
間もあけずに答える、その声に抑揚はなかった。
「そんなことを考えた瞬間に、覚悟が鈍る。王族に生まれた者は死ぬまで王族であり続ける。それがこの血を引く責任だ」
頭の中にある言葉をそのまま出している。そういう話し方だった。考えるまでもない、当たり前にそうあるべきだというだけの話。
私は胸が痛くなる。貴族の責任。当然持っているべき自覚。高貴な者に伴う義務。それを果たせなかった、私のこと。
頭の中から記憶を追い出す。今、この男の前で思い悩む意味なんてない。ましてや話す必要もないのだから。
私はビールを呷って、無理矢理に話を変えた。
「ともに責任を果たしてくれるご令嬢は見つかりましたか? あなたはラブロマンスを演出してまで、国を守らなければならないのでしょう」
カーティス王子はまた前を向いた。そのまま空になったジョッキの底を眺める。
「やり方を変えるようにした」
やり方? 声にする前に、答えが返ってきた。
「恋愛感情で思考力を鈍らせる作戦はやめた。今は真に共に歩めると思える家門を探している」
そんな作戦だったなんて、本当に詐欺師のやり方ではないか。
けれど確かに最短で相手を見つけるためには、実利よりも判断力を鈍らせた方が早いのだろう。時間がないからこそ、そのような呆れた作戦を取っていたのだろうに。
「作戦を変えられるほど時間が取れるようになったのですか」
「さあな。ある不幸な女が盾になってくれたことが奏したのかもしれない」
「それで刺客が退いたとしても、……御父上の病が治ったわけではないでしょう」
「言う通りだ。ただ、焦って事情を知らぬ者を引き込んでも長い目で国のためにはならないのではないかという結論になった」
カーティス王子はそこまで言うと、口元をにやりと釣り上げた。横目で私を見て、揶揄うように笑う。
「さて、友人。俺を軽蔑する君の考えは変わったか?」
あの日。私は彼に、人を騙すところを軽蔑していると言ったのだったか。隣国の王子相手に無礼なことを言ったものだ。自分のことながら呆れてしまう。
今度は私がジョッキに視線を落とした。一ミリだけ残るビールがわずかに光る。
「どうでしょう。少しだけ、マシにはなったのかもしれません」
「そうか。それはよかった」
カーティス王子は店主を呼んだ。ビールを二杯、追加で頼む。ジョッキが届くと、私のそれに無理やりにぶつけた。
「難しい話はやめにしよう。今宵は友人と楽しく飲みたくて呼んだのだから」
私は少しの間怪しんで、だけど考えるのも面倒になり、ビールをぐっと呷った。
炭酸は相変わらず暴れながら、私の喉を走り過ぎる。




