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45. 愚かな男の話

 それは、ある男の五日間の恋の話だった。


 貴族の青年レオンは政略結婚を控えていた。傾きかけた家門を再興させるための縁談だったが、会ったこともない女との結婚に彼は憂鬱だった。

 気休めに出掛けた湖でレオンは美しい少女エリスと出会う。レオンは身分と本名を隠し、エリスとの逢瀬を重ねる。


 静かに愛を育む二人。けれど、レオンの怪しい行動に気付いた両親は彼を問い詰める。レオンは愛する女がいると婚約破棄を願うが、両親はレオンを厳しく諫める。彼の領地は結婚相手の家門からの支援がなければ立ちいかぬほどの状況だった。


 恋心と貴族としての義務の間で揺れ動くレオン。エリスに別れを切り出そうと呼び出すが、言葉にならない。湖の上、無言の二人。エリスは何かを悟ったのか一筋の涙を流す。その涙を見てレオンは決意を固めた。


 婚約発表パーティの前夜。寝室にレオンの姿はなかった。


 二人出会った湖の上。今世では結ばれることがない運命を嘆き、二人は毒を呷る。


 早朝、既に亡き人となった二人の元にレオンを探しにきた両親が辿り着く。ボートの上で抱き合うように眠る二人を見て、両親は言葉を失った。レオンと眠る美しい少女エリスは、今宵レオンと婚約をするはずの相手だったのだ。


 ***


 カーテンコールが終わり幕が下がる。


 静かな暗闇に時折すすり泣くような声が響いた。

 ひとつ、ひとつと明かりが灯されていく。ぼんやりと現れる視界の中で、私は隣に座るグレンダ様に話しかけた。


「素晴らしい劇でしたね」

「ええ。演出も曲も、噂通り美しかったわ」


 グレンダ様の奥で、アドルフ様はふう、と息をついた。


「久しぶりに観劇をしたが、……はは、俳優の声が体に響いて疲れてしまったよ」

「まあ、あなたったら」


 何か囁き合う夫妻。少ししてアドルフ様は私達に声を掛けた。


「二人とも、時間はあるか? もう少しお付き合い願いたいのだが」

「ええ、もちろんです」

「では、スパークリングワインを」


 後ろで控えていた給仕に声を掛立ち上がる。私達はそのまま後ろの歓談スペースに移動した。

 元々準備がされていたのか、給仕はすぐに戻ってきた。チーズや軽食が手際よく並べられていく。


 美しい黄金のスパークリングワインがグラスに注がれる。私たちはグラスを掲げ、口に運んだ。爽やかな香りと小さく弾ける泡が歌劇の余韻をうまく包み込む。


 口火を切ったのはアドルフ様だ。


「若いお二人は、今宵の観劇はいかがだっただろうか?」


 私たちは真っ直ぐ向いたまま、順番に答える。


「さすが流行りのラブロマンスですね。エリス役をお務めになった女優の歌声が素晴らしく、心に染み入りました」

「舞台装置も非常に精緻で印象的でした。とりわけ湖のシーンではまるでそこに森があるような臨場感がありました」


 当たり障りのない答え。アドルフ様は頷いて、それから声を低くした。


「貴族制度への懐疑だという批判もあるようだがね」


 私たちは静かに同意した。


 歌劇の多くはドラマチックな物語に隠された本来のテーマが存在する。中でも時世が反映された歌劇は度々社交界で話題となり、その感想は政治的な立場を表明するものとなるのだ。だからこそ貴族たちは観劇に向かい、こうして語り合う。


 貴族という立場を隠した状況で愛を育んだ二人は、お互いの立場を明かすこともなく命を落とす。貴族であること、それ自体が一人の人間であることを否定している、という批判的なメッセージを受け取る者は多いのだろう。


「公爵閣下はどうお思いだね」


 アドルフ様の問いかけに、エドワードは言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。


「家門の再興と個人的な感情を天秤に掛けることが正しいとは思いません。貴族に生まれた者は、その義務を果たさなければならない」

「『高貴な者には義務が伴う』……ヴァレンタイン氏の言葉だな」


 アドルフ様は有名な記述を引用した。

 貴族に無私の行動を促す一節だ。私たちは貴族としての教育を始める際、最初にこの義務について習う。

 領地を持つ者はその者の判断で領民全ての命が危険にさらされることもある。幾多もの他人の生活を、命を預かる者として当然持つべき規範とされている。


 アドルフ様も十分承知しているはずだ。むしろ、広大なバリー侯爵領を長年治めてきた者として、どんな貴族よりも実感されているだろう。

 それなのに、アドルフ様は少しだけ弱気に視線を逸らした。


「私も爵位を息子に譲る際には厳しく批判されたものだ。当時、息子は侯爵という地位を継ぐには若すぎた。……ちょうど君と同じ年頃だったか。閣下のように当主の早逝により若者が爵位を継ぐことは致し方がないが、私が健在なまま全権を息子に渡すというのは、どうも認めづらいものだったらしい」

「ご子息は……バリー侯爵は皆の規範となるような貴族として立派に務められていらっしゃいます」

「結果論だ」


 アドルフ様はエドワードの言葉をぴしゃりと跳ねのけた。

 それはエドワードの意見を排すものではなく、己の弱さを律するような、そういう厳しさを持ったものだったと思う。


「当時私は息子を領主として十分に教育し終えたと思い結論を出したのだが、妻と共にありたいという個人的な感情と領地を天秤に掛け、前者を選んだのだろうか」


 私達はなにも言えなかった。

 当時社交界デビュー前だった私と戦争に出ていたエドワードは、アドルフ様に向けられた批判を直に感じることはなかった。けれど、想像はできる。侯爵という立場の者がその地位をいとも簡単に、ただ妻の療養についていくという私的な感情だけで手放すことが、周りからどのように思われたか。――痛いほど分かる。


「悪かったね。私はもう政治からは退いているんだ。君たちに議論を仕掛けたいわけではない」


 アドルフ様はふっと、空気を緩めた。


「歳を取ると色々なことを考えるようになるのだよ。貴族の義務とは人間性を犠牲にしなければ果たせぬものなのか。犠牲の出ぬままに続く制度をつくるべきではないのかと。……息子や孫に同じ苦労を味合わせたくないという、ただの老心だ」


 スパークリングワインを呷る。ゆっくりと動く喉ぼとけは皺だらけの皮膚が張り付いて目立っていた。私がよく知るアドルフ様よりも随分と年老いたものだ。私がアドルフ様の知る少女ではなくなったように、アドルフ様も年月とともに変わるものがあったのかもしれない。


「私はもっと単純な話だと思いましたけれどね」


 その場の空気を変えるようなカラッとした声でグレンダ様が言った。私たちは同時にグレンダ様に視線を向ける。


「話せばよかったのです。若い彼らは死によって結ばれるしかないと勘違いしてしまった。けれど、お互いの立場を話せば悲劇は起こらなかったでしょう。言葉が足りなかった、それだけのことですわ。……この人も昔はあまり自分の考えを話してくださらなかったの。何度不要な勘違いをさせられたことか」


 グレンダ様が横目でアドルフ様を見ると、アドルフ様は懐かしそうに目を細めた。批判の中でも療養に連れそった夫婦の戯れに見えたが、そこに至るまで諍いもあったのかもしれない。


 グレンダ様がもう一度、私達に視線を戻す。その優しい瞳が、私達を交互に眼差した。


「お二人は、お互いの気持ちをきちんと話し合えているのかしら」


 エドワードを感じる左半身が妙に重く感じた。


「お気遣いありがとうございます。ですが、私たちには何の問題ありません」


 そう、何の問題もない。エドワードの言う通りだ。


 だって、歌劇の中で愛し合う二人とは違って、私達は分かり合う必要なんてない。私はもうエドワードと離れることを決めたのだ。伝え合うべき気持ちなんてとうに捨ててしまった。


 顔を上げるとグレンダ様と目が合った。あなたも同じなのかと探るその表情に、逃げ出したくなる。私はまた、嘘をつかないといけないのだろうか。


「湖が」


 咄嗟に出たのは馬鹿みたいな言葉だった。引っ込めるわけにはいかず、私は続ける。


「あのシーンのモデルになった湖は、王都からそう遠くないところにあるそうですよ」

「あら、そうなの」


 グレンダ様は気を逸らしてくれたようだ。私は安心して、どこかで聞いた話を伝える。


 王都から馬車で一時間程。橋を渡り、小さな林を抜けたところにある湖畔。劇作家が付近の別荘に宿泊している折に、夜中、月を映していた湖畔から着想を得たそうだ。


「行ってみたいわ」


 ええ、是非ご夫婦で楽しまれてください。そう言う前に、グレンダ様は私たちの方を向いて目を輝かせた。


「ねえ、お二人とも。よろしければ一緒に行きましょうよ」


 うっと、言葉に詰まる。アドルフ様の意向を窺おうと目を向ければ、アドルフ様は頷いた。


「それはいい。ご同行願えるか」


 私は諦め、エドワードを横目で見た。エドワードはちらりとだけ私と目を合わせたあと、正面をすぐに向きなおした。


「ええ、もちろんです」


 私はまたこの男と夫婦ごっこを続けなければならないのだと、胸の奥がずっしりと重くなった。

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