44. 観劇
劇場へ向かう馬車。相変わらず私から顔を逸らすエドワード。二度目となれば私も慣れてきて、彼の眉間の皺と付き合うこともなく外を眺めた。
昼から夜に変わるちょうど間。窓の外では建物も人も皆夕日を体に纏っている。暖かいのか、寂しいのかわからないその景色が、妙に物悲しい。物悲しいのに、ずっと見ていたくなる。
けれど劇場まではそう遠くない。十数分もすれば到着し、馬車はゆっくり止まった。
先に降りたエドワードが私に手を差し出す。ふと、先日のシャーロットとの会話が頭を過ぎった。いま私がされているのは他の貴族からの反感を買わないためだけのエスコート。そこに私への感情はひとつもない。
虚しくなって視線を下げると、ちょうどエドワードと目が合ってしまった。灰色の瞳に夕日が映り込み、赤みがかって見える。ふと、どこかでこの色を見たことがあったような気がした。どこだったろうか。
すぐに陽が傾いて、エドワードの瞳から赤色が抜ける。残るのは、光のない灰色の瞳。
くだらない。なんだっていい。私も儀礼的にエスコートを受けた。
係の者に案内をされるままにボックス席へ移動する。彼の腕から手を離して横並びの席に座ると、私たちはまた、いつも通り他人に戻っていく。
エドワードは幕の上がっていない舞台をまっすぐに見つめていた。ただの大きな布を見つめることの何が楽しいのでしょうね。真似をしてみたけれど、さっぱり分からない。この男の考えることなんてもう何年も分からないのだから、今更気にすることではないのかもしれない。
幕のひだを数え終わった頃、後ろで扉が開く気配がした。バリー夫妻が到着したようだ。私たちは立ち上がって後ろを向いた。
「アドルフ様、グレンダ様、ごきげんよう」
「本日はご招待いただきありがとうございます」
「ああ、お二人とも、ごきげんよう」
私はグレンダ様に視線を向ける。淡い紫色のドレスは劇場でも目立たない色であるのに華やかで、グレンダ様によく似合っていた。
「グレンダ様、本日のドレスはよくお似合いですね。落ち着いているのに華やかでいらして」
私がそう伝えると、グレンダ様は嬉しそうに笑った。
「あら、ありがとう。実はこのドレス、孫が選んでくれたのよ。歳をとるとくすんだ色のドレスを選びがちでしょう? 『おばあ様、沼の魔女みたい』なんて言われちゃって」
「まあ、そんな」
「ドレス選びの難しさを分からせてやろうと選ばせてみたら、こんなに似合うドレスを選ばれてしまって。もう形無しよ」
「ふふ、社交界デビューが楽しみですね」
目の前のグレンダ様は孫自慢をするお祖母様そのものだ。厳格なグレンダ様の雰囲気が変わられたのは病気が関係していると思っていたけれど、案外ご令孫の影響なのかもしれない。
「本日の演目はグレンダ様のご選定とお聞きしました」
アドルフ様との挨拶を終えたエドワードがグレンダ様に声を掛けた。
私は手元のプログラムに目線を移す。
本日の演目は近頃評判の新作だ。ロマンス作品らしく、人気の俳優たちが配役されていた。
「ええ、そうよ。グレイ公爵はロマンスはお嫌いかしら」
「とんでもございません」
揶揄うように言うグレンダ様に、エドワードは恐縮したように首を振った。
「幼い頃、流行りの小説を読むのが好きでした。その中にはロマンス小説もあり……むしろ、詳しいくらいです」
――ロマンス小説。
エドワードの言葉に、頭がぐわんと引っ張られた。
そのまま体を任せると、私の意識は簡単に、エドワードと過ごしたあの部屋に引き戻される。
一人掛けのソファに座るエドワードと、大きなソファにうつ伏せに横たわる私。
当時、私はお気に入りのロマンス小説をエドワードにお勧めした。あなたもこういう物語を読んだ方がいいわ、そうすれば大人になった時に社交界で人気者になれるかも。そんな風に揶揄いながらだった気がする。
すぐには気が進まなかったのか、私が感想を催促してもエドワードはいつも誤魔化した。そうして時間が経ち、私が本を貸したことすら忘れた頃、エドワードは突然その小説の感想を話し出したのだ。
物語の主人公たちについて熱く語るエドワード。一方で私はその頃にはもう熱が冷めてしまっていた。
部屋の中に満ちる柔らかな光と彼のつまらない話が心地よくて欠伸をすると、エドワードは真面目に聞いてよと怒った。下唇を突き出して不機嫌を表す彼に、今のような威圧感はなかった。
見た目に似合わず情緒的で、繊細で、物語の登場人物にも感情移入をする。あの頃、エドワードは確かにそういう男だった。
……ああ、そうだ。思い出した。
エドワードの話が終わる頃にはすっかり夕方になっていた。窓から射す西日がエドワードの瞳を赤く照らしていて、私はそれをすごく綺麗だと思ったのだ。
つい先ほどと、同じように。
「……公爵夫人? 聞いていますか?」
はっとして横を見ると、グレンダ様は私の反応を窺うように顔を向けていた。私は咄嗟に声を出すことができなくて曖昧に笑う。顔の筋肉が決まりきらず何度も口の端を引っ張りなおした。
その時、開演を知らせるプレリュードが響き始めた。なんとも私に都合の良いタイミングで、胸を撫で下ろす。
「申し訳ありません。久しぶりの劇場にのぼせてしまったようです」
「ふふ、観劇中は集中しなさいね。では、また後で話しましょう」
私たちは軽く挨拶をして、用意された横並びの席に腰を下ろした。しばらくすると劇場の灯りが一つずつ落とされていく。
視界が暗くなるにつれて、私の感情も落ち着いてきた。
どうしてあんなことを思い出してしまったのだろう。エドワードがロマンス小説なんて言うから。……ああ、だめだ。こんなことを思い出すのは無駄なこと。考えてはいけない。深く息を吐くと、頭の中を占めていた思い出も一緒に吐き出された気がした。
数十秒の暗闇。幕を引き上げる音。心地よい緊張感の中、穴を刺すような光が広がっていき、ようやく、舞台は開かれた。




