42. バリー侯爵邸 2
どうしてエドワードと二人で馬車に乗っているのだろう。
わざとらしく斜向かいに座るエドワードを睨みつける。私の視線に気付いていないのか、気付いていて無視をしているのか。エドワードは私と目が合わないように窓の外をじっと見ていた。
そんなに嫌なら、お得意の「旦那様の馬車は先に出発いたしました」をすればよかったじゃない。なんでわざわざ呼びに来たのよ。
……なんて。そんなこと、聞かなくても分かっている。どうせこの招待を受けた理由と同じだ。別々に到着して、アドルフ様から怪しまれたくない。それだけだ。
くっだらない!
エドワードのしかめ面に向かって心の中で暴言を吐く。
残念ね。あなたは今、体面のために私との時間を耐えているのかもしれないけれど、ぜーんぶ無駄なこと。アドルフ様の印象なんて、今さら意識しても意味がないの。どうせもう、私たちの関係くらい知ってるわ! かわいそうに、初めから一人で行けばよかったわね!
何度も何度も稚拙な悪態を繰り返す。けれど、そんなもの五分もすれば尽きてくる。
することのなくなった私は、ついにエドワードから目を逸らした。
視界からエドワードがいなくなっただけなのに、ささくれ立った気持ちは落ち着いてくる。ああ、だからエドワードも私から顔を逸らしていたのか。……そんなこと、分かりたくもなかった。
蹄の音が響く。街が後ろへ流れていく。
エドワードへの不満が薄れていくにつれ、また違った緊張が湧いてきた。
今から会うのは、あの厳しかったグレンダ様だ。
礼儀に不安はない。私はもう子どもの頃とは違う。それでもやっぱり、久しぶりに会うグレンダ様に礼儀がなっていないままだと思われるのではないかと考えてしまうのだ。
挨拶はこう言って、礼の角度は……すっかり身についているはずの動作を頭の中で何度も繰り返す。
三十回を超えたあたりで、バリー侯爵邸が見えてきた。私の緊張は最高潮になる。
馬車が止まる。エドワードが無言のまま手を差し出す。そんなことどうでもいいと思えるくらい、体が固まっていた。
けれど数秒後、私はすぐに肩透かしを食らうことになる。
「あら、まあ、お綺麗になって!」
弾む声。小走りでこちらへやって来るグレンダ様。
私は見間違いではないかと目を見開き、それから何度も瞬きをした。
まさか、先代侯爵夫人ともあろう方が訪問客を自ら迎えるなんて。それに、どんな時でも人前で走るなんて端ないことをしてはいけないと私に教えたのはグレンダ様だ。
戸惑う私に気付いたのか、グレンダ様は「あらやだ、私ったら」と言って、取り繕うように礼をしてみせた。
「よくいらっしゃいました。お待ちしておりましたよ」
一見してあの頃と変わらない美しい姿。
けれど記憶の中のグレンダ様よりも痩せていて、心なしか背も縮んだように見える。
胸の奥がざわつく。けれどそれを表に出さないよう、私もまた礼儀通りの挨拶を返した。
「お招きいただきありがとうございます。グレンダ様、お身体の具合はいかがでいらっしゃいますか?」
「ご心配ありがとう。もうすっかり良くなりましたわ。それよりあなた、ご紹介してくださる?」
グレンダ様は視線を私の少し後ろに送った。その先にいたのはアドルフ様と言葉を交わしているエドワードだ。エドワードはこちらに気付くと、私の横で改めてグレンダ様に向き直った。
ああ、私がエドワードを紹介しなければならないのか。私は一度だって彼に妻として紹介されたことがないのに?
文句を言いたくなるのを我慢して、私は無理矢理に頬の筋肉を持ち上げた。
「グレンダ様。こちら……夫のエドワード・グレイでございます」
「お初にお目に掛かります、グレンダ様。妻より夫人のお話は伺っておりました。こうしてご挨拶の機会をいただき光栄です」
「あら、どうぞ、よろしく」
丁寧な挨拶をするエドワードに、グレンダ様は私と話す時よりも少しだけ無愛想に返事をした。その態度が関係性からくるものなのか、それとも私とエドワードの不和を知っていてのことなのか、探ろうとしても分からなかった。
「ほら、いつまで立ち話をしているつもりだ」
立ち尽くす私たちにアドルフ様が呆れ気味に言った。
私はグレンダ様の態度が気になりながらも、招待されるままに邸宅内へ足を進めた。
***
落ち着いた色合いの応接室。私たちはマナー通りにお約束の会話をしていく。最近の王都の様子だとか、先日のパーティの話だとか。少しすると話は段々と個人的なものに変わっていき、療養先でのお二人の話も聞くことができた。
グレンダ様の肺は随分と良くなったそうで、生活をするのに不便はないそうだ。痩せてしまいはしたものの、昔よりもむしろ出歩いている方だとグレンダ様は笑った。その笑顔は以前のような威厳のあるものではなく、けれどむしろ健康的に見え、私はやっと安心することができた。
一通りの話が終わったところで、グレンダ様がふうっと息をついた。
「本当に懐かしいわ。ハリディ男爵がグレイ公爵家への支援のお話をなさったのが最後だったかしら」
覚悟はしていたけれど、それでも昔の話をされるのは気が重い。胸の奥が鉛を溜め込んだように沈んでいく。
けれどそんなことを思っているのも私だけのようで、アドルフ様も同じように目を細めた。
「ああ、そうだな。随分昔のことのようだ。……あれだけ奔走していたんだ。シェルヴァ公国の勝利を、男爵もあちらで喜んでいるだろう」
「……改めまして、先の戦争ではご支援を賜りましてありがとうございました。おかげさまでこうしてこの場に戻ることができました」
エドワードが礼を言うと、アドルフ様は苦しそうに眉を寄せた。私たちはそれだけで、何も言えなくなる。
不自然な沈黙。心臓の音が響く。アドルフ様は何を考えているのだろうか。父を懐かしんでいるだけなのか、それとも私のことを――
ややあって、アドルフ様は私の方に体を向けた。眉間の皺を崩さぬまま、低い声で言う。
「ご両親の葬儀に伺えず、申し訳なかった」
目の前がぐらりと揺れた。両親の葬儀。思い出そうとすると、なぜだか頭がぼんやりとしていく。
完全に働かなくなる前に、私は口だけを動かした。
「……当時、突然のことで心の整理がつかず、皆様にはすべてが終わってからのご報告になってしまいました。謝らなければならないのは私の方です」
あの頃未熟だった私は父母の死にうまく適応できず、葬儀も親族のみで済ませてしまった。父母の友人たちへの連絡も遅くなり、その不手際を幾人にも責められたものだ。
きっと、アドルフ様も同じように思っていたに違いない。
出来損ないの親不孝者。役立たず。裏切り者。今まで受けた批判が次々に浮かぶ。
けれどいくら待ってもそんな言葉は降りて来ず、恐る恐る顔を上げると、アドルフ様は困ったように笑っていた。
「すまなかったね。君にそんな顔をさせたくてお父上の話をしたわけではないよ」
ああ、アドルフ様は私を責めるのではなく、本当に申し訳なく思ってくださったのか。安心すると同時に、責められるべきことを責められないことが苦しかった。
空気を変えたくて、私は無理やりに明るい声を出した。
「本日は、侯爵様はご不在でいらっしゃいますか? 邸宅にお邪魔させていただいたのですもの。是非ご挨拶をさせていただきたくて」
アドルフ様も私の意図を汲んでくださったようで、先ほどの話はなかったように声音を変えた。
「ああ、申し訳ないがあれは終日不在にしている。なに、久しぶりに予定がなかったようで親子三人で王都で遊んでいるんだ。君たちが来るなら邸宅に残るとも言っていたが、私の判断で追い出したよ。昔馴染みだから気を遣う必要もないと思ったのだが」
「そうだったのですね。ええ、もちろんです。どうぞご家族との時間を優先なさってください」
そうして私は、ふと、この流れであれば気になっていたことを聞けるのではないかと思った。唾を飲み込んで、先ほどとなんら変わらないように口を開く。
「侯爵様とはいつでもお話する機会はございますから。わが領地にもよくしてくださっているのですよ。侯爵様は、何か仰っておりませんでしたか?」
もちろん、嘘ではない。私は領地経営に関わっていないため詳しい事情を把握しているわけではないけれど、バリー侯爵が戦後も復興支援を続けてくださっていることくらいは知っている。
ただ、そういう話をしたかったのではない。
もっとプライベートな、私が領地運営に関われるような立場ではないことやその理由を聞いているのか、ということを知りたかったのだ。
私の質問にアドルフ様は少しも迷うことなく答えた。
「変わらず支援を続けていると報告は受けている。最近では支援というよりも対等な取引になっている……それどころかむしろ得をさせてもらっていると聞いたが」
「そうでしたか」
アドルフ様の返事からは、私の知りたかったことは引き出せなかった。隠したのか、本当に何も聞いていないのか。
案外、前者かもしれない。アドルフ様は私たちに夫婦仲を尋ねることもしなかったし、疑うそぶりも見せなかった。バリー侯爵は久しぶりに会った父母にわざわざ私たちの厄介な事情を説明する必要を感じなかったのかもしれない。
「ところで」
会話が途切れた隙を見て、グレンダ様が小さく手を叩いた。くるりと首を回して、私とエドワードの顔を交互に見やる。
「お二人はご夫婦の時間は取れていらっしゃるの? 結婚してもう三年だったかしら。息子夫婦同様、あなたたちも忙しいのではないかと思って」
夫婦の時間。私たちに馴染まないその言葉に私は口を噤んでしまう。
夫婦の時間なんて、結婚後一度も過ごしたことがないのではないか。いや、つい先ほど侯爵邸に向かう馬車で二人きりになった。視線すら合わないあの時間を夫婦の時間と呼べるなら、十分に取れているのだろうけれど。……家族三人で仲良く外出する侯爵一家と比べると、面白いくらいに冷めきっている。
私が皮肉ばかりを浮かべている間に、エドワードがさらりと誤魔化した。
「ええ、実は、ご心配いただいた通りです。戦後処理や戦時中に御支援賜った皆様へのご挨拶に伺う日々が続いており、お恥ずかしいことになかなか妻と過ごす時間を設けられずにおりまして」
「まあ!」
グレンダ様は茶目っ気を含んだまま顔を顰めた。
「男の人って、いやね。この人も昔、何かと理由をつけては社交シーズン中はずっと帰ってこなかったのよ」
奥様の療養について行くほどの夫婦仲でも、そのような不満は出るものなのだろうか。愛妻家のアドルフ様は昔からグレンダ様と過ごす時間を大切にしていたように思えたのだけれど。
アドルフ様はいやぁ、とか、うーんとか、きまりの悪い返事をしていたが、ふと思い立ったように顔を輝かせた。
「では、公爵夫妻も我々とともに観劇などいかがかな」
観劇。……私とエドワードが?
こんな時だけは同じ気持ちだったのだろう。エドワードがバツが悪そうに呟いた。
「……観劇、ですか」
「ああ、嫌いか?」
答える前に、グレンダ様が手を叩く。
「いいわね! 私たちからお誘いしたら、閣下はお断りになれませんでしょう?」
二人の視線がエドワードに向いた。流されるように、私も彼を見上げる。
エドワードの眉尻がぴくりと動いた。まさか、断る文句を探しているのだろうか。たった一秒黙った後、その場の全員から注目を集めたエドワードは似合わない笑顔で答えた。
「お気遣いありがとうございます。ぜひ、ご一緒させてください」
私は心の中で大きなため息をついた。




