41. バリー侯爵邸 1
屋敷の中を歩いていた。
深緑の絨毯、少し古びた手摺。体の中に溜まった興奮を動力にして、私は走り出す。
とん、ととん。軽快に階段を降りエントランスホールに着くと、ドレスの裾を揚々と整えた。
暫くしてエントランスの扉が開いた。私は咳払いをして、芝居がかった声で言う。
「グレイ公爵家の皆様。ようこそお越しくださいました」
口を窄めて礼をする。上目遣いにお客様の様子を伺うと、グレイ公爵夫妻は驚いたように顔を見合わせていた。
「どうしたの、オフィリア。急にかしこまって」
エドワードが目を丸くしたまま聞いた。私は得意げに背中を反らせて答える。
「私ももう立派なレディですから! 挨拶くらいできますわよ?」
「……ふ、似合わない話し方」
「なんとでも!」
つん、と顎をあげると、すぐに後ろから大きな手が伸びてきて私の頭を下げさせた。
「すまないね。バリー侯爵夫人に教わった礼を見せたくて仕方がないんだよ」
お父様は私を諌めるように私を撫で回す。せっかくのお嬢様仕草が台無しになりそうで、私は頭をぶんぶん回してお父様の手を振り払った。
「ほう、バリー侯爵夫人に。いい先生についてもらったものだ」
グレイ公爵――エドワードのお父様は顎に手を当て、いたずらげに笑った。
「エドワード、そちらのご令嬢に挨拶を返してやりなさい」
「はい、お父様」
ぐしゃぐしゃに乱れた髪を整えていた私に、エドワードは手を出すように言った。何をくれるのかと両手を差し出すと、エドワードは私の右手だけに触れた。
「本日はご招待いただきありがとうございます、オフィリア嬢」
そのまま私の右手をくるりと回転させ、口元近くまで持ち上げる。口が触れたわけではないのに、ぞわりと肌が粟立った。
「やだ、くすぐったい!」
私はすぐに手を引っ込めた。変な余韻を消したくて手の甲を掻いていると、エドワードはそんな私をくすりと笑った。
「オフィリア嬢にはまだ早かったみたいだね?」
私は悔しくて、その日はずっと頬を膨らませていた。
***
――懐かしい夢を見た。
体を起こし、寝癖のついた髪を掻き上げる。
目を瞑る。そのまま寝てしまわないよう、目を開ける。かろうじて瞬きと言える程度の瞬きを一つ。それでもまだ、私の意識の半分は夢の中に置いてけぼりのままだ。
大きな伸びとあくび。朝の冷たい空気が肺に入ると、ようやく少しずつ現実に戻って来られる気がした。
ちょうどよくノックの音が響いた。ほとんど同時に扉が開いて侍女たちが入ってくる。相変わらずだ。ノックをされるだけマシなのかもしれないと思いながら、私は彼女たちの持ってきた盥の水で顔を洗いはじめる。冷たい水が私の汗を流していく。
「ぼんやりしていますね」
アデルの声に、私は手を止めた。
掌の泉が指の隙間から流れるのを眺めながら、先ほどまでいた世界のことを考える。
「夢を見ていたの」
「どのような夢ですか」
「……グレンダ様の夢」
本当は少し違うのだけれど、そのまま言うのも憚れた。
タオルで顔を拭いて表情を隠す。うまく誤魔化せたようで、アデルは特に追求することはなかった。
それに、全てが嘘というわけでもない。
夢で見ていたのは、ちょうどアドルフ様の奥様であるグレンダ様と出会った頃の出来事だ。
グレンダ様は年に数度、会えば必ず私に社交界の礼儀を教えてくださった。
私はグレンダ様に教わった礼儀をすぐに試したくて、グレイ公爵一家が遊びに来るたびに披露していたのだ。
――きっと、今日がバリー侯爵邸へ訪問する日だからあんな夢を見たのだろう。
私はベッドから降りて、ドレッサーの前に移動した。すぐに無数の手が伸びてきて、私の顔を作りはじめる。
「それにしても、まさか公爵様が招待を受けられるとは思いませんでした。断られるか、お一人で伺われるかと。ご夫婦で外出なんて、公式行事を除いては初めてではありませんか?」
探るように言うアデルに、私は白粉で咳き込みながら答える。
「グレイ公爵家はバリー侯爵家に恩があるから、エドワードも断れなかったのじゃないかしら」
「戦争の支援ですか?」
「よく知っているわね」
先の戦争で真っ先にグレイ公爵家への支援を決めてくださったのがアドルフ様だ。
当時、グレイ公爵家とバリー侯爵家は特別深い関係ではなかったにもかかわらず、アドルフ様は私の父の口添え一つで支援を決めてくださったのだ。
「支援を始めてすぐ、奥様のグレンダ様が肺を悪くしてしまって。アドルフ様はご子息に爵位を譲ってグレンダ様の療養に付き添い領地を離れたの。アドルフ様は先日のクロージングパーティが久しぶりの社交の場だったそうよ」
「だから先代侯爵はお二人の関係をご存知でなかった」
「だと思うわ」
アデルは少しのあいだ口を噤み、すぐに続けた。
「つまり、公爵様としては、オフィリア様と親しい先代侯爵が夫婦の不仲を知らないのは好都合。わざわざ知られたくもないから、夫婦二人での誘いを受けた、と」
「でしょうね。……まあ、流石にもうご存知でしょうけど」
化粧が終わり、立ち上がる。コルセットを締められると蛙のような悲鳴が出た。不満げに睨む私にアデルはいいから続けろというように視線を流した。情報収集も彼女の仕事なのだろう。仕方なく潰れた声で続ける。
「……だって、アドルフ様はバリー侯爵に私たちを邸宅に招待することを話すわ。そうすれば、侯爵は私たちの事情を伝えるでしょう」
「それなのに先代侯爵は夫婦二人でと招待したのですね」
「話を聞く前に招待状を書いてしまったんじゃないかしら。侯爵だってお忙しいもの。毎日話せるわけでもないでしょうし」
最後の仕上げが終わり、私は立ち上がった。鏡の前で角度を変えてチェックする。大丈夫、問題はなさそうだ。
時計を見る。そろそろ出発の時間だ。
私は窓際まで歩き、邸宅の門を見下ろした。どうせ別々の馬車で行くのだ。鉢合わせたくはない。エドワードが出たのを確認してから私も向かおう。
一息ついたとき、誰かが部屋の扉をノックした。
出発の時間にわざわざ訪ねてくるなんて一体誰だろう。怪訝に思う間に扉は開けられる。
廊下には屋敷の執事がいた。執事は部屋に入ると私の姿を見定めるように睨み、咳払いをした。
「準備はお済みですね。エントランスで旦那様がお待ちです」
……え?
私はすぐに理解ができず、阿呆みたいに首を前に突き出した。




