4. 情報屋 1
「そんな顔するくらいなら叫べばいいのに」
男の指先が動いた。氷みたいに冷たいそれは私の喉元を這いあがり、遊ぶように私の顎を跳ねさせる。
人を馬鹿にしたその態度は、だけどなぜだか私の緊張を解いた。
私は小さく咳をして、目の前の男を睨みつける。
「……声が、出なくて」
「ははっ、そうか。声、出るようになってよかったな」
口元だけで笑うその表情は不気味だったけれど、私に危害を加えるようには見えなかった。侵入者のくせに、不思議とこの男からは敵意を感じない。
「あなたは誰?」
聞けば、男は得意げに顎を上げて笑った。
「情報屋だ。マゾヒストの変態野郎からの紹介さ」
――ああ、そうか。
昼間のエイベルとのやりとりを思い出す。
以前、何か自分にできることはないかと言われた時に頼んでおいたのだ。「金を払えば味方になる者が欲しい」と。確かに彼は今日、準備ができたと……マゾヒストの変態野郎?
どうにも飲み込めない下品な形容に私は眉を顰めた。
「なにかしら、その、変態って」
「医者だよ。あの変態の医者は、あんたが痛めつけられている姿に自分を重ねて興奮している変態だ」
「……知りたくなかったわ」
エイベルのあの表情の正体がまさかそんなものだったなんて。興奮で震えるグレーの瞳を思い出して、吐き気がした。
そんな私を見て、情報屋はまた乾いた声で笑う。
「あのマゾヒストの性癖だけじゃない。俺は金さえ貰えればなんでも教えられる」
「性癖なんてどうでもいいけど……例えば?」
「そうだな、あんたの夫と愛人の関係とか」
嫌な話。苛立って、ぐっと唾を飲み込む。
「興味がないわ」
「どうして? あの夫のことが好きだろう?」
試すような情報屋の目に、私はため息をついた。
「あら、まさか私たちが恋愛結婚だと思っているのかしら。随分質の低い情報屋さんね」
「いいや、もちろん知っているさ。あんたたちは政略結婚だ。だけどあんたは夫を好きで、夫もあんたを好きだったはずだ」
呆れて言葉も出ない。
私の前で愛人を庇い、躓いた私に手を差し出しもしないあの男が、私のことを好き? ふざけているにもほどがある。
まさか、『エドワードの好きなタイプはオフィリアらしい』という、誰が言い出したのかも分からない噂をそのまま信じているのだろうか。
「間違った情報ばかり言われると、信用がなくなるわ」
情報屋は焦るそぶりもなく、悪戯をする子どもみたいに笑う。
「あれ、違った? 他人の頭の中は覗けないから正確な情報は出せないんだ。だからあんたも俺に頼むのは客観的な情報だけにした方がいい。……って、いい説明になっただろう?」
「なんだか誤魔化されているようにしか思えないんだけど」
「信用できないならそれでいい。あんたに他に伝手があるならそっちと契約をすればいいだけだ、なぁ?」
煽るような言葉に、不快感がじわじわと染み込んでくる。私に他の伝手なんてあるわけがない。この男はきっと、それを知って言っている。
もう一度、情報屋を見る。飄々としたこの男は、少なくとも警備のあるこのタウンハウスで誰にも見つからずに私の部屋にたどり着ける程度の腕はあるのだろう。
ため息をついて、私は手を差し出した。
「いいわ、あなたと契約しましょう。ただし、信用できないと判断したら契約を破棄します」
「ああ、賢い判断だ」
情報屋は私の手を握り返した。手のひらが硬く、ごつごつしている。何度もマメが出来ては潰れた手だ。今までどこか妖精と話しているようだった気分が、急に現実に引き戻される。
「それで、欲しい情報は?」
私はぱっと手を離して、情報屋を見上げた。信用に足るか、まだわからない男。
「あの医者から……」
「マゾヒストの変態野郎、な」
「……マゾヒストの変態野郎からはなにか聞いてる?」
情報屋は私が彼の言う通りに言い直したことに満足したようだ。それから心底おかしそうに、右手で口元を覆う。
「オフィリア様は離婚をしたがっている、離婚さえすれば私のものになるって……ははっ、だめだ、笑える」
「う、わぁ……」
聞いておいてよかった。まさかエイベルにそんな風に勘違いをされているなんて。
これからはエイベルとの距離感を考え直さないといけない。……なんて、もともと離宮で傷の手当てをされる時以外会ったこともないのだけれど。
「でも、半分正解、半分不正解」
「マゾヒストの変態と一緒になりたいって?」
「気持ち悪いことを言わないで、そっちじゃないわよ」
ふざけた雰囲気に呑まれそうなところを、私は深く息を吸い気を引き締めた。
周りを見渡す。
もちろんこの部屋には私たち二人以外いないのだけど、用心するに越したことはない。
今から言うことは、グレイ公爵家の者にも、ランドルフ侯爵家の者にも、絶対に聞かれてはいけない。――初めて口にする、私の欲しいもの。
「夫と別れて、そのまま姿を消したいの」