36. 領主 1
最終日にふさわしい静かな朝だった。柔らかに照る太陽。森を抜ける冷たい風。
エントランスを出た私を待っていたのは、シャーロット・ブレアムだった。
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」
私は侍女を気にしてちらりと視線をやったが、すぐにどうでもよくなった。私が彼女に絆されていることは、きっと昨日、王妃様に報告されているのだろう。そうでなくても王妃様の前で庇うようなことを言ってしまったのだ。今さら気にしても意味がない。
「ええ。あなたこそ、怪我の調子は?」
「もう、すっかり」
シャーロットは両手を持ち上げて、いかにも元気であるというポーズを取った。相変わらず、かわいい人。シャーロットは腕を下ろすと、今度は後ろで組んで体を傾げた。
「せっかく最終日なので、本日は公妃様とご一緒したいと思ったのですが、いかがでしょうか」
「……ええ、そうね……いいわ。そうしましょう」
私は侍女たちに、クロージングパーティの準備の時間まで好きに過ごすように伝えた。侍女たちは私の行動を怪しんではいたけれど、ただ礼をして下がった。
「さあ、公妃様。行きましょう!」
シャーロットに言われ、馬車に乗り込む。向かい合わせに座ると、景気のいい馬の鳴き声とともに馬車は動き出した。
窓の外、木々が後ろに流れていく。それを眺めながら、私はひとり言のような声量で呟いた。
「あなたは私と一緒にいてもいいのかしら」
視線をゆっくりとシャーロットに送る。シャーロットは二つ、咳払いをして、キッと眉を寄せた。
「『君が個人的に彼女と親しくするのはどうでもいい』」
精一杯の低い声で言われた台詞は、つい先日、聞いたような言葉だ。
どう返していいか分からず黙っていると、シャーロットは表情を戻して、子犬のように私の反応を窺った。
「あれ? 似ていませんでしたか? 公爵様の真似なんですけれど」
「……ちっとも似てないわ」
「あ、ひどーい」
私はつい、吹き出してしまう。
あの日、確かに私は傷ついていた。それなのに、こうして振り返ってみると、なんだか大したことないように思えてくる。
ああ、やっぱり、好きだ。
目の前でふざけるシャーロットを見て思う。私は彼女のことが好きだ。ずっとこうして話したかった。……話してくれて、嬉しい。
「公妃様」
シャーロットはまだ少し茶目っ気の残る表情で、私に笑いかけた。
「公爵様がどうでもいいと仰っているので、私は公妃様と親しくすることにしました。ですので、クロージングパーティまで一緒にいましょう。本日は、私がいつもお付き合いいただいている方々にご紹介いたしますね」
彼女の付き合いのある人への紹介と聞いて、私は少し、緊張する。
ええ、とか、そうね、とか、多分、適当な返事をしたのだと思う。私はもう一度窓の外を見ながら、不安な思いをどうにか隠していた。
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シャーロットに案内された社交場には、普段私が関わるような貴族たちは一人もいなかった。グレイ公爵家と関わりのある、貴族の中でも力の強い家門が多いように思える。
シャーロットは慣れたように人の輪の中に入っていった。
「皆様、ごきげんよう」
「ブレアム男爵閣下! 怪我の具合はいかがかしら。私たち、心配していましたのよ」
「ご心配ありがとうございます。良く効く薬がございましたので、すぐに痛みが引きましたの」
「あら、以前仰っていた鎮痛薬ですね」
シャーロットを中心に好意的な挨拶が飛び交う。
私は紹介されるまで静かにしていようと、一歩引いてその様子を眺めていたのだけれど、あるご婦人が私に気付いて声を上げた。
「あら、そちらの方は」
確か、オールポート伯爵夫人、だっただろうか。私より一回りほど年上の上品なご婦人だ。
シャーロットは嬉しそうに私の隣に戻ると、まるで宝石を自慢するように胸を開いた。
「公爵様がいらっしゃらないので、僭越ながら私からご紹介申し上げますね。こちらは、グレイ公爵閣下のご令室、グレイ公爵夫人にございます」
「オフィリア・グレイと申します。皆様に直接ご挨拶を差し上げるのは初めてでしょうか。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
王袈裟な抑揚をつけて紹介をするシャーロットの隣で、私は丁寧に礼をした。
私がエドワードではなくシャーロットから紹介をされるということを、この貴族たちはどう受け取るのだろうか。不安の中、それを見せないよう、『公爵夫人』の顔をつくる。
目の前のご婦人方は、存外に柔らかな表情を浮かべていた。
「まあ、グレイ公爵夫人。お目にかかれて光栄でございますわ。私、アラーナ・オールポートでございます」
「ミラベル・セルウィンと申します。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
一人ずつ名乗り、挨拶をしていく。その誰からも敵意は感じられず、私は拍子抜けしてしまう。"あの"とか、"噂の"とか、誰もそんな言葉を頭につけることなく、公爵夫人とだけ呼んでいく。
違和感を持て余したまま挨拶が一巡すると、一人のご婦人が頬に手をあて、ほうっとため息をついた。
「本当に、こうして間近に拝見しても、お美しい方でいらっしゃいますのね」
――ほら。やっぱり。
私の容姿に言及する人はいつも、言外に侮蔑の意を含ませる。ああ、あの"春の妖精"。夫人をモチーフにした裸婦像を見たことがありますわ。夫人はどんな殿方もすぐに虜にしてしまうんですものね。そう、あなたの夫以外を。
何度も何度も言われてきたことだ。私の知らぬところで、勝手に広がるうわさ話。
ここでも同じだ。皆、私を貶めたがる。
私はどんな屈辱にも耐えるよう、ぐっと胸に力を入れた。
ややあって、セルウィン伯爵夫人がゆったりと口を開いた。
「夫人もブレアム男爵ご自慢の化粧水をお使いでいらっしゃいますの?」




