35. お願い
乗り心地のいい馬車に、私は理不尽に苛立った。
グレイ公爵家の馬車が特別粗悪なものなわけがない。それでも私が乗る馬車がいつも痛いくらいに揺れるというのは、やはり御者がわざと乱暴にしていたのだろう。こうして丁寧に運ばれていると、比べてしまってやはり気が立つものだ。
苛立ちのまま目の前に座る男を見ると、男は毒気を抜くように優雅にほほ笑んだ。
雰囲気からして、貴族なのだろう。侍従か、秘書官か、補佐官か。狩猟に参加していないので騎士ではないのだろうが、それにしては訓練を受けた者の体つきである。文官と言えど鍛えなければならない事情があった、ということか。……まさか、趣味で鍛えているなんてこともないでしょうし。
男を見定めているうちに、馬車は速度を落とし、やがて止まった。
「夫人、お手を」
差し出された手の角度は、イグラド式の礼儀に準拠していた。私は男のエスコートを素直に受ける。
馬車を降りると、土臭い空気が肺を満たした。昨日ぶりの、狩猟大会会場。
「ここからは徒歩にてご案内申し上げます」
そうして森へ、誘い込まれる。
どうも、ちぐはぐだと思う。一見礼儀に則った言動をしているようで、他国の婦人を森の中へ連れ出すなんて無礼を当たり前にする。その不整合さは、この男の主人に似ている。
男は足を止める。私も倣い、顔を上げる。
ちょうど木の葉の茂る隙間なのだろう。そこだけ明るく日が差したところを狙ったように、一人の男が姿を現した。
「こんなところまで呼び出してすまなかった」
カーティス王子のブロンドヘアが陽の光を反射した。この髪色は猟をするには不利なんじゃないか。どうも目立って、仕方がない。
私はもううんざりだとため息をついた。
「昨日、あるご婦人が森の中で獣に襲われたばかりなんです。そんな状況なのにこんなところまで連れてこられるなんて」
「ああ、あの愛人は運が良かったようだな。クロスボウの腕もあるらしい」
私が教えたんですけどね。言っても意味がないから、言わないけれど。
「それで、何の御用です? 噂を流さなかったのは、昨日もお伝えした通り、噂を流すほど親しい人がいないだけですが」
「それだけではない。体が戻るまで側にいてくれただろう。襲撃をされたばかりで恐怖もあっただろうに」
「相手が殿下でなくてもそうしましたわ」
「それでも助かったのは事実だ」
謝られるのも面倒で往なしていたのに、カーティス王子はそれを許さなかった。エメラルドの瞳で、まっすぐに私を捉える。
「君に礼がしたい」
礼。森の中で言われると、生臭いものしか思い浮かばない。
「兎の毛皮でもくださるのですか」
「君が欲しいなら」
「必要ありません」
あいにく、兎を殺してまで毛皮を欲しがるようなかわいい女でもない。
私が断ると、カーティス王子は困ったというように眉を寄せた。
「何か欲しいものはないのか。こちらとしても、借りを抱えたままではやりづらい」
そうか、そういうこともあるのか。
私は彼に同情したけれど、別に、親しくなりたいわけではない。だから礼なんてほしくなかったのだけれど、それでは借りになると言われれば、十分理解ができる。素直に礼を受け入れた方がきっぱりと関係がきれるのかもしれない。
そう思っても、やっぱり私に欲しいものなどなかった。獣の皮も、イグラドの真珠も、美しいと思えど強く惹かれるものではない。
真珠。……そうか、真珠。
欲しくはないけれど、私のために使うことはできるのかもしれない。
「お願いを、聞いてくださいませんか」
「お願い?」
繰り返すカーティス王子に頷いて、私はその思いつきを口にした。
「……優勝、してください」
一瞬、間が空いて、カーティス王子は盛大に吹き出した。
「なんだ、貴国の顔を立てるつもりだったが、賞品の真珠でも欲しくなったか?」
「そんなわけがないじゃないですか」
別に、私は真珠が欲しいわけじゃない。そもそも、クロージングパーティで彼から真珠を送られなんかしたら、どんな噂をされることか。
「夫を優勝させたくないのです」
私がそういうと、カーティス王子は納得したように「ああ」と漏らした。
「君の夫は狩りが得意のようだな。昨日の成績は聞いている」
すぐに理解されるのも癪だけれど、説明が省けるのは楽でもある。
「ええ、ですからこのまま優勝されると」
「パーティで愛人に真珠が送られる」
屈辱に耐えるだけならまだマシだ。ただ、これ以上シャーロットを目立たせたくなかった。先ほどの王妃様の様子からして意味のあることかは分からないけれど、それでも易々と彼女に注目を集めるよりはマシだろう。
「私は真珠は要りません。褒美は、殿下のお心に決めた方にお送りください」
私はカーティス王子を試すようにじっと見つめた。
「できませんか?」
「――いいだろう、必ず」
カーティス王子は、まるで騎士の誓いのように胸に手を当て頭を下げた。高貴な男に似合わない動作が、だけどやけに様になっていた。




