30. 襲撃
「なんの御用でしょう」
カーティス王子は答えなかった。自分から呼び止めたくせに不遜な人だ。馬上から黙って見下ろされていい気がするわけがない。
もう、放って帰ってしまおうか。そう思い始めた時、カーティス王子は静かに馬から降りた。リードロープを近くの木に括り付け、それから急ぐこともなく私の前まで来る。
「この前は悪かった」
思わぬ謝罪に、私は眉を顰めた。
「まだ私を騙せると思っていらっしゃるのですか」
「そうじゃない」
カーティス王子は何が不満なのか大きくため息をついたあと、汗のせいか乱れた髪の毛を掻き上げた。
「すぐに噂が広められると思っていた。誰にも言わないでいてくれただろう」
ああ、そんなことか。私はつい鼻で笑ってしまう。
「別に、噂を流すほど親しい人がいないだけですわ。私は、不幸な女なので」
「あれは、……あの時は計画がうまくいかなかったことに苛立って、わざと君を傷つける言葉を選んだ」
「傷つきなんてしませんでしたけど」
「それでも言うべきではなかった」
今さらなんだというのだろう。罪悪感にでも駆られたのか、それとも引き続き黙っていろという牽制だろうか。どちらにしろ私の知ったことではない。
私はあの日、この男に騙されてやることは止めたのだ。
「どうでもいいです。私は……、っ」
言いかけた時、腕に何かがぶつかった。風で小石でも飛んできたのだろうか。なんとなく風上の方に視線をやる。木々が鬱蒼として影る中、なにかがぎらりと光った。
「……殿下!!」
反射的に叫ぶ。カーティス王子はすぐに反応をして、振り返りながら体を逸らした。瞬間、放たれる矢。矢はカーティス王子の腕を皮膚一枚掠めて地面に突き刺さった。
あまりの出来事に私は咄嗟にカーティス王子に駆け寄る。彼はしゃがみこんで矢の飛んできた方向をじっと睨んでいた。
「殿下、腕が」
「喋るな」
口元を押さえる。そのままカーティス王子の後ろにゆっくりとしゃがみこんで、彼と同じように警戒する。
草むらの中は暗くて見えない。何人いるのか、一体誰なのか。分からないのに、気配だけが突き刺さる。
無音の時間。
不意に、カーティス王子は私に手を伸ばし、肩口をぐっと掴んだ。何をするつもりだ、そう思う間もなく、勢いよく引き寄せられる。不安定な姿勢だった私は踏ん張ることもできず、彼の目の前にどさりと転がった。
「な、にを……」
カーティス王子は慌てることもなく、彼の目の前に転がる私を自分の方に引き寄せる。そのまま動けないよう後ろから首に腕を回した。
私の身体は彼の前で無防備に晒される。一瞬遅れて体が状況を理解し、全身にうるさいくらいの血液が巡った。
先ほどまで見えなかった草むらの向こうが妙にはっきりと感じられる。鋭く光る矢じりは、私に向けられていた。
――殺される。
息をすることもできなかった。ただ、この体が貫かれるのは今かと、それだけしか考えられなかった。
どれだけの時間が経っただろう。間抜けた鳥がピイと一つ鳴いて、それが合図だったかのように森の奥の視線が霧のように消えた。たっぷり三十秒。完全に気配が消えた時、首に回されていた腕から力が抜け、私はうつ伏せに倒れ込んだ。
息を吐く。空気が肺に入り込む。胸が震え、全身に波及する。
体を支えていた腕の関節が、ガクガクとおかしいくらいに震えていた。抑えようと何度も力を入れて、意味がなくて、そうしているうちに私の背中に手のひらが添えられる。
「大丈夫か」
私は声の方に顔だけを向けた。カーティス王子は、何もなかったかのような顔で私を見下ろしている。怒りと恐怖で震える唇を、私は無理に動かした。
「わ……たし、を……、盾に、しましたね」
上下の歯がガチガチにぶつかり合う。情けない私と対照的にカーティス王子は妙に冷静だった。
「考えがあってのことだ」
「考え、って……」
「静かにしてくれ。頭痛がする」
なんて、なんて男だ。
カーティス王子は私のことを気にすることもなく、ゆっくりと木に寄り掛かった。優雅に休憩でもするつもりか。怒りを抑えられぬまま睨みつけていると、カーティス王子の顔色がみるみるうちに青白くなっていくのが分かった。
「……殿下、顔色が」
ただ事ではない雰囲気を感じ取り、私はまだ震えの残る体を起こす。カーティス王子の額からは脂汗がにじみ出ていた。
「毒、ですか?」
私は彼の近くまで行き腕に触れた。矢じりで敗れた袖から見える皮膚は、傷口は大きなものではないが、わずか紫に腫れている。
「命に関わるものじゃない。……少し、体が麻痺するくらいだ」
「そんな……」
「もし哀れに思うなら、これで腕をキツく縛ってくれ。それと、馬にくくりつけている水瓶を持ってきてほしい」
カーティス王子は片手で器用にベルトを外し私に渡した。私は言われた通り傷口より上をキツく縛り上げる。そのまま急いで馬のところまで行き水瓶を取り、すぐに彼のもとに戻る。
カーティス王子は自身の傷口から血を吸いだしていた。私が水瓶を渡すと、口をゆすぎ、傷口を洗う。何度か繰り返した後、ふうっと息をついた。
「……助かった。もう大丈夫だ、行っていい」
「人を、呼んだ方がいいのではないですか。森の外では医者も待機しています」
「いいや、誰も呼ばないでくれ」
そんなわけがあるか。そう思うが、この男の事情が頭に掠める。
地獄の国。それを悟られぬよう、この国の女と婚姻を結ぼうとする男。襲撃された事実が大っぴらになると困るのかもしれない。だからって、ここで一人で耐えるつもり?
「どうした。はやく行け」
私は悩む。こんな男、放っておいた方がいい。親族で殺し合い、人を平気で地獄に巻き込もうとする男だ。さっきも盾にされたばかりではないか。こんな男がどうなろうと、関係ない。
……そう割り切ろうとしても、私にはできなかった。
カーティス王子の隣に腰を下ろす。私の意図に気付いた彼は馬鹿にするように笑った。
「嘘だろう。ここに残るつもりなのか」
「……動けない人を一人で置いていけるほど、人でなしではございませんから」
カーティス王子は信じられないというように目を見開いたが、私が本気なのが分かったのか、諦めたように体の力を抜いた。
彼の額に滲む汗をハンカチで拭いてやる。カーティス王子はちらりと私を見てもう一度目を伏せた。
「何か話してくれ。気を紛らわせたい」
時折、体がぶるりと震える。状況に合わない傲慢さがむしろ痛々しかった。
「私は殿下に話すことなんてありませんけれど、殿下が話したいなら聞いて差し上げてもよろしいですよ。話すだけで楽になることもあるかもしれませんし、先ほどの言い訳でも、なんでも」
「……は、言い訳か」
ぶるり。もう一度震える。カーティス王子は体の中から気持ちの悪さを全て吐き出すような、そんな息を吐いて、それからまた口を開いた。




