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3. 愛される女

 エドワードは私の目の前で立ち止まり、その長身で脅すように私を見下ろした。


 先の戦争では前線で指揮をしていたらしいこの男は、戦争から帰った今もまだ人を殺しかねないような空気を纏っている。

 狼のようなグレーの瞳のせいだろうか、隙を見せれば噛みつかれそう。ぴっちりとまとめ上げられた青みがかった黒色の髪も、彼の恐ろしさを増幅させていた。


 エドワードは黙って私を睨みつけた。何を言われたわけでもないのに、彼の視線は私を責めているように感じる。


 だけど、果たして責められるべきは私なのだろうか。

 私はエドワードの横にいるシャーロットにちらりと目を向けた。エドワードの腕に遠慮なく掴まる、すらりと長い手。夫がこれほど堂々と愛人を連れ歩いているのに、どうして私が萎縮しなければならないのだろう。


 そう考えると、こうして立ち止まってあげるのも馬鹿馬鹿しく感じる。

 私はこの場を去ろうと、エドワードを避けるように顔を背け、一歩足を踏み込んだ。


 瞬間、ふくらはぎに激痛が走る。ああ、しまった。痛み止めが切れかけている。

 体勢を整えようとしても遅かった。膝の力が抜け、私の体は崩れ落ちる。反射で何かに掴まろうと手を伸ばすと、そこには驚いた顔の愛人がいて。


「……オフィリア!」


 諌めるような声と、空を切る私の手。地面に膝がつくと同時に、傷口が開く感覚がした。


「う……」


 私は唇を噛みしめて、痛みに耐えた。この男の前で弱い自分なんて見せたくない。


 肩が震えるのをどうにか抑える。吐息が漏れないよう、息を止める。脂汗はこの際仕方がない。思考をぼやかして、痛みを感じないように自分に暗示を掛ける。大丈夫だ、ただ、転んだだけ。薬はまだ効いていて、なんの痛みも感じないはず。


 そうやって下を向いたままいると、視界に影が差した。顔を上げなくても分かる。私の頭上にエドワードがいる。


「何を、しようとした」


 ……ああ。地面に倒れた妻に最初に掛ける声が、私を疑う台詞なのね。


 押し殺していた感情が一気に戻ってきて、肺が震えた。だめ、ここで泣きでもしたら、今までの我慢が無駄になってしまう。飲み込んで、飲み込んで、顔を上げずに答える。


「……躓いただけですわ」

「どうだか」


 どうでもいいから、早くどこかへ行ってよ!

 叫ぶわけにもいかず仕方なく黙っていても、エドワードはその場から去ってはくれなかった。


「どうした。早く起き上がれ」


 ああ、いやだ。手を差し伸べる気もないくせに、起き上がれなんて。

 私は彼に聞こえるようにわざと大きなため息をついた。


「あなたが私の前からいなくなってくださったら起き上がりますわ。顔も見たくないのです」

「……勝手にしろ」


 冷たい声とともに影が動いた。


 二つの足音がだんだんと遠くなっていく。いつしかそれも聞こえなくなって、私はようやく顔を上げた。よかった、二人はもういない。


「オフィリア様」


 アデルが無表情に私を見下ろした。面倒そうな顔にすらほっとするだなんて、どうかしている。


「アデル、そこのベンチまで支えをお願い。あと、痛み止めをちょうだい。先に戻っていていいから」


 アデルは頷いた後、言われた通りに私をベンチまで運び、痛み止めを差し出した。そうして一礼をして屋敷に戻っていく。


 彼女の後ろ姿を見送りながら、私は痛み止めを流し入れた。相変わらず、甘くて嫌な味。


 一人残った中庭に、冷たい風が吹き込む。

 体の内側は熱いのに、汗が渇いて皮膚の表面だけが寒かった。


 ふと顔を上げると、エドワードの執務室の窓が見えた。カーテンが閉められた窓には、影が二つ重なってみえる。夫と愛人の影。


 あれが愛なのだろうか。先ほどの二人を思い出す。

 意地悪な妻が愛人に触れようとしたところを勇ましく守る。なんともまぁ、感動的だこと。


 私があなたたちを主役にした歌劇を演出するなら、エドワードの捨て台詞を合図に舞台を暗転させ、あなたたちだけに光を当ててロマンチックなオペラを流してあげるわ。悪妻役の私は、観客に気付かれないように幕の中に戻るの。……ふふ、くだらない。

 陽が落ちて暗くなっていくこの庭は、まさに私の演出通りじゃない。


 それにしても杜撰な脚本だ。

 エドワードは私がシャーロットに飛びかかって殴りつけるとでも思ったのだろうか。私とシャーロットの体格を比べても、私が彼女に勝てるとは思わないのだけれど。


 案外、どちらが勝てるかなんて関係ないのかもしれない。

 ふくらはぎを撫でてみる。傷が開いて血が滲んだ包帯はねっとりとしていた。


 愛される女は、指の一つも触れられないよう大事に抱き寄せられる。愛されない女は、誰に傷つけられても、その事実にすら気付かれない。

 重要なのはただ、男から愛を受けるかどうかだけ。


「あんまりじゃないの、ねぇ」


 私の声は、陽が沈みきった庭に溶けて消えていった。


 ***


 最悪だ。

 私は荒い息をつきながら枕元のタオルを手に取り、寝汗を拭いた。


 体を休めたくて無理やりに早く寝たのに、怪我の痛みで目が覚めてしまった。痛みを無視しようと努力はしたものの、努力程度で痛みは治らないし、一度目が覚めてしまえば再び眠ることなんてできない。


「う~……いたい~……」


 私は枕に顔を押し付けてうめき声をあげた。誰も聞いていなくても、声に出すとマシになる気がするのだ。


「いたい~……、かゆい~……、うう~……」


 薬の飲みすぎは中毒になると聞いた。だから我慢していたのだが、それも限界がある。飲もうかどうか、悩んでいる間にも痛みは強くなっていく。


 ああ、もう限界だ。

 ナイトテーブルの上の薬に手を伸ばす。躊躇いを捨てて水で流し込めば、すぐに効くはずもないのに、それだけで痛みが引いていく気がした。


 ベッドの淵に座り、深呼吸をして気持ちを整える。大丈夫、すぐに痛みはなくなるはずだ。


 私は心を落ち着けるために目を瞑る。汗ばんだ体に夜風が当たって気持ちがよかった。窓から吹き込む風を楽しめる期間も、あとどれくらいなのだろう……


 ……風?


 違和感に気がつくと同時に、ドクンと大きく心臓が鳴った。なんで、風が吹いているの? ベッドに横になる前に、窓は締めたはずなのに。


 静かだったはずの部屋に、時計の秒針が響き渡る。私はその音に気付かれてしまわないよう、視線だけを動かした。


 バルコニーの大窓。カーテンが風に靡いて揺れている。その隙間から、僅か感じる、人の気配。


 ――侵入者だ。


 叫んで、助けを呼ばないと。頭ではそう思っても、恐怖で喉が震えて声が出なかった。声どころか、指先のひとつすら動かせない。


 バルコニーの人影が、一歩、動いた。そうして私の部屋に、一歩、踏み入れる。


 大きな風が吹いて、カーテンが捲り上げられる。スロウの視界。私の目は、そこにいた人影を捉えた。


 ――月明かりに照らされたその男は、夜が溶けたような見た目をしていた。

 黒いローブから覗く褐色の肌に、闇のように黒い髪の毛。吊り上がった目の中にまんまるな月のような瞳が綺麗に浮かんでいる。


 男は足音も立てずに部屋の中に入ると、一歩ずつ、私に近付いた。逃げろ、逃げろ。私の体は、言うことを聞かない。頭がぼんやりとして、何も考えられなくなる。


 気付けば男は私の目の前まできていた。耳鳴り。私の世界から、それ以外の音が消える。

 男はすうっと腕を上げて、ゆっくり私に手を伸ばした。


 ――あ、殺される。


 目を逸らすことすらできなかった。指先が私の喉を掠める。爪が伸び、切り裂かれる幻覚が私を支配した。血まみれの私。たった一人で、死んでいく。


 だけど、現実世界では痛みも苦しみも降りてこなかった。


 男は私に触れたまま、機械仕掛けの人形のゼンマイが外れたみたいにぴたりと動きを止めた。時が止まってしまったのだろうかとさえ思った。


 私は目玉をぎょろりと動かして、男を見上げる。お月様の瞳。目が合うと、男の時間が動き出した。


「……ふ、すごい顔」


 男はおかしそうに目を細め、私を指差したまま噴き出した。

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