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26. クロスボウ 2

 風を切る音が聞こえた。

 空気の震えが指先に伝わって、皮膚の表面をピリピリと駆け上がる。


 私から離れた矢はまっすぐに空間を切り裂いた。


 バシュッ。


 的に突き刺さる音に、私の体は時間を思い出す。

 体の内側が熱い。腹の奥の熱が胸に、喉に上がって、溢れてしまいそう。


「……かっこいい」


 不意に聞こえた声に、私は正気を取り戻した。

 腕を下ろし、息を吐く。体の痺れは簡単には取れなかったけれど、何気ない振りをして声の方を振り向いた。


「案外簡単よ。クロスボウはそう技術も必要ないから」

「格好いいですよ……! 私、ドキドキしてます!」

「ああ、そう」


 私の方がドキドキしているけれど、彼女にそれを悟られるわけにはいかない。撃つ前と何も変わらないようクロスボウを護衛に渡して、シャーロットを手招いた。


「ほら、教えてあげるから、いらっしゃい」

「うわぁ……楽しみ……」


 シャーロットを目の前に立たせて、私は彼女の体に触れる。


「姿勢はそう、楽に。顎を引いて」

「ふふ、くすぐったいです」

「……ふざけてると危ないわよ」

「はーい」


 わざとらしく無邪気に装う彼女に、十年以上前、初めて弓を習った自分が重なる。初めてのことを習う時は、その高揚感を発散させるためいつもよりお喋りになった。彼女もきっと、そうなんだろう。


 私は護衛から受け取ったクロスボウをシャーロットに渡した。


「肩に当てて……首出過ぎ。力を抜いて。狙い方、分かる?」

「分かりません。どう見ればいいんでしょう」

「そうね、撃ってみて慣れましょうか」


 安全装置を外させると、さすがにシャーロットも緊張したのか、無駄口を叩かなくなった。構える腕が震えている。


「いいわよ。自分のタイミングで、引き金を引いて」


 そっと彼女の腰に手を当てると、シャーロットはこくんと頷いて深呼吸をし、引き金を引いた。

 彼女の放った矢は的の上を越えて、遠く地面に落ちていく。


「駄目でした」


 情けなく眉を下げる顔が可愛らしくて、気を抜くと優しく慰めてしまいそうになる。グッと堪えて、もう一度彼女の体に触れた。


「撃つ時に体が反るから上にいくの。お腹に力を入れて」

「お腹……ふぅ……」

「そう、その位置。撃つまで胸を開かないようにね」


 私はもう一度、装填済みのクロスボウを構えさせた。


 ***


 的を射る音。

 何度目かの緊張が解れて、私はふうっとため息をついた。気を抜く私とは裏腹に、隣のシャーロットは嬉しそうに飛び跳ねる。


「公妃様、当たりました! 三発連続!」

「ええ、よかったわね……」


 どうしてそんなに元気なのよ。教えているだけの私がこうも疲れているというのに。


 強くもない日差しが、それでも肌を焼くほどに時間が経っていた。運動なんて久しぶりの私には、立っているだけで精一杯だ。

 へとへとで膝に手をつく私を、シャーロットが横から覗き込んだ。


「私、鹿くらいなら仕留められますでしょうか」

「どうでしょうね。気付かれる前に、運よく一発で当たれば」

「なるほど、鹿は動きますからね」


 あまりにも当たり前のことを言うものだから、疲れで自制が利かなくなった私はつい吹き出してしまった。


「そうね、……ふふ、鹿は動くから」

「え? 今のが面白かったんですか? 公妃様、変わってますね」

「ええ、そうね……ふふ、ちょっと、疲れてしまって、おかしくなっているのかも」


 ため息のような笑いが止まらない私を訝しげに見ながら、シャーロットは訓練場の奥にある休憩スペースを指さした。


「公妃様、休憩していきましょうよ。お菓子とお茶、準備してもらうように言っておいたんです」

「ふふ……はぁ。……そうね、そうしましょう」

「あ、いつもの公妃様に戻りましたね? 残念」


 なにが残念よ。

 私はちらりと彼女を見るだけで、すぐに休憩スペースに向かった。


 カフェテーブルにはちょうど準備を終えたメイドたちがいて、私たちが近付いたのを見ると頭を下げて迎えた。私一人ではされたことのない対応だ。


 ……ああ、そう。メイドたちは、シャーロットのことは女主人として扱うのね。せっかくいい気分だったのに、私はまた少し不機嫌になる。


「公妃様、座ってください」


 シャーロットが私の椅子を引いて言う。なんだかすごく滑稽だ。私を馬鹿にするメイドたちが敬うシャーロットは、私をここの女主人であるかのように椅子を引く。


「そんなことしなくてもいいわよ」


 冷たく言ったはずなのに、シャーロットは気分を害することもなく「そうですか」と言って向かいに座った。


 私たちの前に注がれたばかりの紅茶が置かれる。喉が渇いていたのでたっぷりの冷たい水を飲みたかったけれど、メイドたちが私の言うことを聞いてくれるわけもない。


 諦めてティーカップを傾ける。熱った体に紅茶が流れ込んで、体の内側に熱が溜まっていく。


「運動のあとは甘いものが沁みますね」


 シャーロットはクッキーを齧りながら笑った。そんなものを食べて余計に体が渇かないのかと思ったが、彼女を見ていると私も甘いものが食べたくなって、同じように一口齧る。砂糖の甘味が舌からじんわりと体に沁み込んでいくと、疲れも溶けるようだった。


「今日は教えてくださってありがとうございました」


 ティーカップ越しに見つめたシャーロットは、何かを企んでいるような顔をしていた。


「これくらい、なんともないわ」

「それにしても、女性でクロスボウを扱える人は少ないのに、さすが公妃様ですね。どこで習われたんですか?」

「あなた、どこまで知っていて、何を知りたいの?」


 わざとらしい話題に不快感を表すと、シャーロットは悪びれもせずに肩をすくめた。


「気付かれてしまいましたか。やっぱり、本心を隠しながら話すのは、私には難しいようです」

「表情が嘘くさいのよ。何かを企んでいますって口元をしているわ」

「口元、なるほど。……本心を隠しているのは確かですが、公妃様に悪意を持っているのではありません。純粋に、公妃様のことを知りたいだけなんですけれど」


 マッサージするように頬を揉みながら言う彼女に、つい気を許してしまいそうになる。そうでなくても、私が彼女のお願いを断れたことなんてないことは、彼女も気がついているだろうに。


 悔しくなって、私は少し、やり返したくなる。


「……あなたは私と親しくしてもいいのかしら」


 顎を引いて上目がちに見ると、シャーロットも何かを悟ったらしく、ごくりと唾を飲み込んだ。


「親しくしても……とは?」

「あなたを愛する人が嫉妬するのではなくて?」

「公妃様、もしかして、私に社交のやり方まで教えてくださろうとしていますか?」


 まったく、無粋な人。

 私が涼しい顔でゆっくり瞬きをすると、彼女はやっと理解したように咳払いをした。

 それではもう一度と、私は話し始める。


「私と話していて気分を害される方がいらっしゃるのではないでしょうか」

「えっと……、あの方はプライベートでの交友関係には口を挟まないでいてくださいますの」

「あら、随分と冷淡な関係なのね」

「そう見えますか?」

「ええ。でもあなた、あの方の寵愛を受けていらっしゃるのでしょう?」

「さぁ、どうでしょう」


 彼女の内面に似合わない妖艶な笑み。

 そこだけ取り繕うような笑顔は、嘘だと告白してしているようにしか見えない。


 お陰で、彼女の役割というものがぼんやりと見えてきた。


 おそらくシャーロットは、エドワードとはなんらかの契約関係にあるのだろう。爵位を授ける代わりに、愛人かと聞かれた時に否定をしない……とかだろうか。そういえば、彼女からも、エドワードからも、愛人関係にあると直接的に聞いたことはなかった。あまりにもお似合いだから、私を含め皆が勘違いして、本人たちも否定をしないから噂が広まったのだろう。


 何故わざわざそんなことを、とは、考えなくても分かる。私の立場をなくしたかったのだ。


 もしかして、シェルヴァ公国がブリジア王国からの独立を確かにするための準備が整いつつあるのだろうか。だからこそ、今までただ放置していた私という存在が邪魔になって……。


 ――バンッ!


 不愉快な音と、机の震え。

 発生源を睨み上げると、護衛の男が威圧的に私を見下ろしていた。文句があるなら口で言いなさい。じっとりと目を細めても、護衛は表情も変えず黙ったままだ。


 張り詰めた空気の中、声を上げたのはシャーロットだった。


「ちょっと、なんですか? いきなり机を叩くなんて、乱暴じゃないですか」


 男は私から視線を外し、反対側のシャーロットを見やる。シャーロットは怯んだように体を引いていた。二人とも、分かりやすくて有難い。


 きっと、この男は私がシャーロットとエドワードの関係を探ることが気に食わないのだろう。社交界のやり方で話せば、シャーロットがエドワードとの契約について語らなくても、私はそれを推し量ることができる。

 だから乱暴に会話を止めたのだろうけれど、その態度は逆に私の推測が正しいと言っているようなものだ。そもそもシャーロットがエドワードの愛人なら、護衛騎士若きが彼女を睨みつけるなんてしていいわけがないのに。


「……男爵閣下。そろそろお時間では?」

「時間って……」

「行きましょう」


 護衛の男は無理にシャーロットの腕を掴んで席を立たせた。これ以上私と相対させることはエドワードの不利になると思ったのだろう。

 文句を言う間もなく、シャーロットは男に引っ張られていく。


「公妃様!」


 首から上だけ振り向いたシャーロットが、捨て台詞のように叫ぶ。


「また話しましょうね、絶対ですから!」


 私は小さくなっていく彼女を黙って見届けた。手持ち無沙汰に啜った紅茶はすっかり冷めて、生ぬるかった。

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