25. クロスボウ 1
私を苦しめた高熱は、たった三日で消えていった。たった三日だ。三日間、いつも通り食事も運ばれてきたし、夜になればヒューが様子を見に来てくれたから孤独でもなかった。
それなのに、私は自分を騙すこともできないほどに寂しさを感じていた。
きっと、昔のことを思い出してしまったからだ。三年掛けて蓋をした記憶はいとも簡単に漏れ出て私を浸食していく。
ああ、嫌だな。
大窓の外、爽やかに広がる晴れ空とは反対に気持ちが沈んでいく。
私はもう一度、寂しさに慣れるための時間を過ごさなければいけないんだ。ゆっくりと心を殺していく、虚しくて、途方もない時間。
手始めに目を閉じて、錘を吐き出すために大きく深呼吸をした。途端、扉をノックする音がして、私は中途半端に息を止める。
侍女の誰かだろうか。今日は何も用事はなかったと思うけれど。そう思って扉をじっと見ていても開かれることはなく、代わりにもう一度、トントントンと、高い音が響いた。
「開いてるわよ」
不思議に思いながら返事をすれば、一秒間を置いてゆっくりと扉が開かれる。その隙間から顔を出したのは侍女でも使用人でもなく、シャーロット・ブレアムだった。
「おはようございます、公妃様」
「……おはようございます、男爵閣下」
挨拶を返しながらぼんやりと考える。
ああ、そうか。シャーロットは私の返事を待たずに扉を開けるようなことはしないのか。あまりにも当たり前の礼儀を守られたのは久しぶりで、先程吐き出し損ねた胸の錘がずしりと重さを増した。
「具合はいかがですか?」
シャーロットはベッドの隣までくると私の顔を覗き込んだ。
「まだ起きるのはつらいですか?」
「……目が覚めたばかりなだけよ。体調はもう良くなったわ」
「無理なさらないでくださいね。本当はその日にでもお見舞いにお伺いしたいと思っていたんですが、体調が悪い時に気を遣わせるのはよくないと言われてしまって」
誰に言われたの。頭に掠めたその言葉は無視をする。誰だっていい、私には関係ないんだ。関係ない。
「こうしてお話しできるようにまでなられて、安心しました」
シャーロットが本当に私を心配していたかのように微笑むから、私は気分が悪くなって目を逸らす。彼女はそれでも気にせず話を続けた。
「公妃様。私、公妃様とこうやってお話しする時間が欲しいと思っているんです」
「……誘われれば断らないとお伝えしたでしょう」
「本当ですか? この前みたいな偶然ではなく、私からお誘いしても?」
念を押す彼女を怪しがって見上げると、シャーロットは何か企んでいるような表情をしていた。アメジストの瞳が狙い通りとでもいうように細められる。――嫌な予感がする。
「なにを、望んでいるの」
シャーロットは私の手を掴んだ。逃さないとでもいうようにぎゅっと力を入れ、唇の端をにっと上げる。
「弓を教えて頂きたいのです」
「……弓?」
「ええ、来週の狩猟大会に向けて」
――狩猟大会。
落葉の時期に王室所有の森で三日にわたって行われる恒例行事だ。
元々は王室が特定の貴族に野生動物の駆除依頼をしたことから始まった習慣が、駆除に功績があった者を讃え始めた頃から規模が広がり、いつの間にか各家門の弓の腕を誇示し合う大会となった。
貴族たちは家門から代表者を選びチームを組んで、狩った野生動物の種類や頭数で競い合うのだ。
「……まさか、あなたが狩りに参加するの?」
「そんな、まさか」
シャーロットはいたずらをする子どものように笑った。
「代表者以外が弓を撃てるような小動物エリアもあると伺いました。せっかくなので弓を学んでおきたいな、と」
「どうして私に」
「公妃様は弓が得意と伺ったので」
だから、誰が言っていたのよ。
私の知らないところで私の話をされる不愉快にキッと眉間に力を入れてみたけれど、シャーロットはまるで効かないようにキラキラと目を輝かせていた。
私は彼女のこの目を見ると、いつも闘志のようなものがどこかへ行ってしまうのだ。
「……いいですよ、お教えいたしましょう」
ほとんどため息のような承諾にシャーロットは「楽しみです」と私の手を握った。
***
晴れ渡った空が憎い。久しぶりに腕を通したハンティング服は少しだけキツくて、私の気持ちをますます締め付けた。
昨日約束した通りに訓練場に向かうと、私を見つけたシャーロットが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「公妃様、来てくださってありがとうございます! 思ったとおり、パンツスタイルもお美しい」
「……どうも」
あなたの方こそ、と、言ってしまわないように、私は顔を逸らす。
実際、シャーロットは恐ろしいくらいにハンティング服が似合っていた。スラリと長い手足は歌劇に出てくる男装の麗人のようにも見えて、隣に並ぶのを躊躇ってしまうほどだ。
シャーロットはまだアップにしたヘアスタイルも素敵だとかなんだとか私を褒めていたけれど、私は彼女のお世辞を無視してもう一人の男に視線を移す。
来た時から気になっていたのだ。私を睨みつける、長身で筋肉質の威圧感のある男。
「その方は?」
「あ、今日の護衛です! 気になさらないでください!」
「……そう」
タウンハウス内で私と二人で会うのにも護衛が必要なのね。……私は誘われたから来ただけなのに随分な扱いだ。
男を睨んだ瞬間、ふと、記憶の蓋が開けられた。……ああ、私はこの男を知っている。
幼い頃、――私がまだグレイ公爵家で遊んでいた頃。
エドワードが私と遊ぶために刺繍や編み物を覚える一方で、私はエドワードと遊ぶために乗馬や剣術、弓を覚えていた。
そうだ、この男。この男は確か、当時グレイ公爵家の騎士団長をしていた男の息子だ。年が近いからと何度か一緒に遊んだことがある。
そうか、あの少年も騎士になったのか。……そうして私からシャーロットを守るために護衛をしている、と。
「彼に習えばいいんじゃないかしら」
急にどうでもよくなって部屋に戻ろうとすると、すぐにシャーロットに腕を掴まれた。
「ちょっと……!」
「公妃様に習いたいんです! ほら、私今日が楽しみで、こんなに準備万端ですよ!」
無礼を糺す暇も与えず、シャーロットはくるりと反転して、背中に背負っていた矢筒を見せびらかした。立派な矢が恥ずかしそうに顔を見せる。
「見てください、私も結構似合っていませんか?」
また、だ。私はまた、彼女の朗らかさに毒気を抜かれてしまう。
私は叱るのを諦めて彼女に向き合った。
「似合っているけれど……あなた、弓矢を習ったことがあるの? クロスボウは?」
「習ったことはないですが……クロスボウ? 弓矢の方が格好いいじゃないですか」
ぽかんと口を開けるシャーロットに、呆れてしまう。
「一週間ぽっちでは弓矢は使えるようにはならないの」
「なんだ、残念」
それくらいあなたが教えていなさいよ。彼女の護衛を睨み上げると、護衛は私を睨み返した。そうして抗議でもするかのように練習場の奥に視線を移す。そこにはクロスボウが二つきちんと用意されていた。
……だったら最初からそう言いなさいよ。
文句を堪えて、私はクロスボウの置いてある机に向かった。後ろからひよこのようにシャーロットがついてくる。
「クロスボウ、初めて見ました。なんだ、クロスボウも結構格好いいんですね」
「知識もないのに触ると危ないわよ。矢が飛び出てくるかも」
「え!?」
ビクリと手を引っ込めるシャーロットが面白くて、私はつい笑ってしまう。
「嘘よ、まだ装填もされていないじゃない」
「……公妃様、まさか、私を揶揄ったんですか?」
「さあ、どうでしょうね。……ほら、装填を」
私は笑顔を引っ込めて、護衛にクロスボウを渡した。護衛は無言で受け取って、装填の準備を始める。静かな訓練場には弦を引き上げる音がギリギリと響いた。
シャーロットは興味深そうに装填の様子を眺めている。
「公妃様はご自身で装填はされないんですか?」
「……さあ、ね。興味があるならその男に習いなさい」
咄嗟に誤魔化しだけれど、私はいやでも自分が失ったものについて考えてしまう。
ランドルフ侯爵家の養子になってからはあらゆる運動を取り上げられた。男の人に好かれる美しい女でいるには筋肉のついた腕でいてはいけないのだと、一人で生きてはいけないようなか弱い女でなくてはならないのだと、そう、教わった。
今の私にはもう、弓を引き上げるだけの力はない。
「あ、終わったようです」
シャーロットの声に意識を現実に戻す。
目の前には装填済みのクロスボウ。護衛は早く受け取れと言わんばかりに私に差し出していた。
「……どうも」
護衛からクロスボウを受け取って、訓練場の真ん中に向かう。
広い訓練場には私たち以外に誰もいない。二人に背を向けると、遠く並ぶ的だけが見えた。
――風が吹いた。
冷たくて少し湿気た風に押されて、無意識に背筋が伸びる。
こうして的に向き合うのは何年振りだろうか。顎を引いて胸を閉じると、今まで感じていた憂鬱や苛立ちが体の外側に抜け落ちて、狙うべき的だけに意識が集中した。
「姿勢は後で教えるわ」
声を出すと、胸が震えた。……本当に、久しぶり。
足を開き、重心を落とす。ふわふわしていた体が急に芯を持って私を支えた。
深呼吸を一つ、安全装置を外す。ああ、心臓が痛い。誤魔化すようにクロスボウを構える。ストックを肩に当てて固定すると、マウントレールの先に懐かしい視界が広がった。
的が霞んだ。照準を合わせるように目を細める。分散した意識がただ的に向かって、中心だけに焦点が合った。
――そうだ、この瞬間。息を止めて、体を張り詰める。この瞬間が、私は一番好きだった。
指の緊張が矢に伝わる前に、私は引き金を引いた。




