24. 追憶 3
戦争が終結したことでようやく平和が訪れると思っていたが、事態はそう甘くはなかった。
ブリジア王国にとって、貴重な鉱物資源の取れるシェルヴァ公国を見放したことは経済的損失に他ならない。
王国にとって幸運だったのは、独立の承認を正式な文書で行っていなかったことだ。これを根拠に王国は「シェルヴァ公国はブリジア王国の領地だ」と主張したが、一度王国に見放されたシェルヴァ公国がそう簡単に受け入れられるはずがない。
独立を巡り、戦争一歩手前の緊張状態が続いた。踏み切らなかったのは、ブリジア王国は戦争で勢いづいているシェルヴァ公国と戦いたくはなかったし、シェルヴァ公国としても疲弊した戦士たちに回復の時間が必要だったからだ。
そこで両国は独立についての議論は先送りにして、形だけの和平を結ぶことにした。条約が結ばれたわけではない。私たちは今すぐに争いを行うつもりはありませんよね、という暗黙の確認だ。
その和平というのが、先代が亡くなって公爵位を継いだエドワードと、ランドルフ侯爵家の養子である私の結婚だった。
「よかったじゃない。エドワード・グレイはあなたのような子が好みだそうよ」
ヴェネッサ王妃の美しい笑顔を見た時、私はやっと理解した。
ああ、ランドルフ侯爵家はこの形を見据えていたのだ、と。
シェルヴァ公国を手放さないための布石。
私とエドワードが幼なじみであったことが歪曲して伝わっていたのだろう、『エドワードの好みの女』である私を養子に入れて、私とエドワードを結婚させる。二人の間に子どもさえできれば、あとはエドワードを殺してしまえばいい。そうすれば、ランドルフ侯爵家の女が生んだ子どもがシェルヴァ公国の後継者として残る。
「あなたを養子にして良かったわ。早く元気な子を産んでちょうだいね」
王妃様に耳元で囁かれ、私は自分がエドワードからシェルヴァ公国を奪うための駒になったことを自覚した。
自分の役割に納得していたわけではない。むしろ、腹の中で滾る怒りが私を乗っ取ってしまうのを必死で抑えていた。
愛する両親を殺したランドルフ侯爵家に、今度は友人を陥れろと命令される。そんなこと、誰がするものか。
それでも命令に従ったのは、私に逆らう力がなかったからだけじゃない。結婚相手がエドワードだったからだ。
エドワードと会える。私たちが話し合えば、ブリジア王国の思い通りにはさせない。きっと私たちは、一番いい未来をつくることができる。
だって、私たちは友人だったのだから。
――結婚式で五年ぶりに会ったエドワード・グレイは、子どもの頃の面影もない悍ましい顔をしていた。
深く窪んだ眼窩から、光を失った瞳が私を見下ろした。私は獣に睨まれたように動けなくなる。
――こわい。
エドワードに対して初めて抱く感情だった。私は彼を、恐ろしく思っている。
いいや、違う、そんなわけない。何度も否定する言葉を言い聞かせる。
エドワードは戦禍の中から帰ってきたばかりだ。戦後処理も簡単な仕事ではないだろう。顔つきを鋭く感じるのはそのせいだ。
二人になればきっと、昔のように笑顔を向けてくれるはず。ただいまって、優しい指先で私の頬を撫でてくれるはず。
大丈夫、きっと、大丈夫。
私はエドワードと二人きりになれる初夜の時間をひたすら待った。エドワードと話して、私たちは昔のままだと、私はあなただけは失わずにいられたのだと、確認したかった。早く、早く――。
――初夜、私の元にエドワードが訪れることはなかった。
一寸も乱れることのなかった、広いベッドの上。一人夜を明かした部屋に、カーテンの隙間からゆっくりと太陽が差し込んでくるのを、私はただ、じっと見ていた。
光の筋に浮かぶ埃がお星様みたいでやけに綺麗だったのを、今も覚えている。
***
「それから三年間、私とエドワードはほとんど話していない」
一気に話した反動か、けほけほと小さな咳が出た。私が体を起こして水を飲むと、ヒューは優しく背中を撫でる。
「あの日、一人で朝を迎えた日から、私ももう、エドワードと話すことを諦めたの」
あの頃の絶望が蘇りそうになって、私は急いで感情に蓋をした。
大丈夫。だって、私は傷つかないために、考え方を変えることにしたのだ。
私の友人のエドワードは、とうの昔、あの戦争でいなくなってしまった。もう二度と会うことができないのだ、と。
「話して楽になった?」
ヒューの問いに、私は一度だけ首を横に振った。
「そうか、悪かったな」
「あなたのせいじゃないわ」
そう、ヒューのせいではない。ただ、私の人生が最悪なだけ。
沈んだ気分をどうにかしたくて、私は無理に明るい声を出した。
「私の情報を取ったんだから、見返りはあるんでしょうね?」
ヒューは一瞬驚いたように目を見開いたあと、すぐにいたずら気に笑う。
「……はは、そうだな。公妃様が幸せに過ごせる場所を、ちゃんと探すよ」
「あら、今まではちゃんと探していなかったの?」
「揚げ足を取るなよ」
いつも私を揶揄うヒューを困らせられたことが嬉しくて、私は彼の顔を覗き込んだ。
「嘘よ。あなたが私のためにしてくれてること、ちゃんと分かってる」
「公妃様はお得意様だからな」
「これからも遠慮なく呼ぶことにするわ」
「ああ、もちろん」
笑った拍子にまた咳が少しだけ出て、私はベッドに横になった。
「大丈夫か? ……熱が上がってきたな。付き合わせて悪かった」
ヒューは起きた時と同じように私の額に手のひらを当てた。そうして撫でるように、ゆっくりとその手を下ろしていく。
彼の手の動きに合わせて、私は瞼を閉じた。じんわりと伝わるヒューの体温が気持ちよくて、緩やかな眠気が私を包みこむ。
「ヒュー」
「ん?」
「今日、来てくれてありがとう。嬉しかった」
暗い視界の中、ヒューがふっと息を吐くのが聞こえた。
「このくらい、サービスだ。……ほら、もう寝ろ。眠るまで、ここにいてやるから」
その言葉はいつかの友人と重なった。
幼い頃、私にそう言ってくれたのはエドワードだったのに。今、同じ屋敷にいるはずの彼は、使用人さえも寄越してくれない。
ぞんざいな扱いには慣れていたはずなのに、熱のせいか急に寂しくなって、瞼の端から涙がこぼれ落ちた。
ああ、嫌だな。諦めるって決めたのに。
優しかった友人のことを思い出してしまったら、もう、だめだった。幸せだったあの頃が、失ってしまったものが、次々と思い出されて、止まらない。
「もう、いやだ……」
私に笑いかけないエドワードの側にいるなんて、もう、耐えられない。ずっと、耐えられなかった。
肺が痙攣して、しゃくり上がる。
もう、嫌だ。もう、疲れた。優しかった彼のことを思い出さないように、現実を思い出させないように、エドワードのいないところで生きていきたい。早く、一刻も早く、彼から離れたい。
ヒューは私が泣き疲れて眠るまで、私の嗚咽に気付かない振りをしてくれた。彼の手のひらの温かさだけが、その夜私を慰めた。




