21. かわいそう
湯船に浸かり、毛布の中にいても、震えが止まらなかった。頭だけが熱くて、麻痺したみたいにびりびりする。
ただの風邪だ、恐れることはない。こうやって寝ていれば、きっとすぐに良くなる。
ベッドに横になったままぼんやりとしていると、ふとテーブルの上、空っぽの花瓶が目に入った。
――子どもの頃、私が風邪を引けば、花を届けてくれる友人がいた。風邪が感染るから会ってはいけないと大人たちに言われていたはずの彼は、こそこそと隠れながらやってきて、白くて小さな花の束を私に渡した。
その花を見ていれば、どれだけ熱に浮かされていても寂しくなんてなかった。早く治して彼に会うことだけを考えることができた。
多分、私はおかしいんだと思う。子どもの頃の思い出に唆されて、どうしても花が見たくなってしまった。
ローブを羽織って、ふらふらとした足取りで温室に向かう。一歩進む度に倒れてしまいそうだった。何度もふらつき、しゃがみ込んだ。こうまでして出歩かなければならないほど、私を慰めてくれるものがないことに耐えられなかった。それなのに。
――温室で私を待っていたのは可愛らしい思い出ではなく、嫌になるほど残酷な現実だった。
「公妃様……」
腕を組んだエドワードとシャーロットが振り向いた。温室でデートでもしていたのだろうか。花に囲まれた二人はお似合いで。
「お邪魔でしたね」
「お待ちください!」
去ろうとした私をシャーロットが呼び止めた。声が頭まで響いて、私の脳みそをぐわんぐわんと揺らす。
歩き出すと倒れてしまいそうだったから立ち止まったのだけれど、シャーロットは彼女の呼びかけに応えたのだと勘違いしたらしい。嬉しそうに駆け寄って、私の手を掴んだ。
「今から温室でお茶を頂くんです。公妃様もご一緒にいかがですか?」
「……シャーロット」
「いいじゃないですか、ね? 公妃様、以前、招待を断ることはないと仰いましたよね?」
嗜めるエドワードを無視して、シャーロットは目を輝かせた。
今の私に彼女を振り切るほどの力はない。ほとんど働いていない頭でこくりと頷いた。
いつの間にか温室のテーブルにはお茶の準備がされていた。私を引っ張るシャーロットにされるがままに席に着く。
目の前のティーカップに注がれた紅茶を口に含んでも、なんの味もしない。嘘みたいにぬるい液体を、作業のように流し込む。
シャーロットはクッキーを齧りながら辺りを見渡した。
「庭師から、温室には公妃様のお好きな花を選んで植えたとお聞きしました。素敵な花ばかりですね」
ああ、ニックじいさんは、私にエドワードと話せと言っておきながら、彼の愛人ともうまくやっているのね。そんな小さなことが鼻についてしまう。
「お二人は子どもの頃、よく本邸の庭で一緒に遊んでいたんですよね?」
「……何を仰りたいの」
耳に膜が張っているように、自分の声が籠って聞こえた。ぼわんぼわん、遊んでいるみたいな音が頭に響く。
「いえ、お二人のお話をお聞きしたいなと思って。公爵様は覚えていらっしゃいますか?」
シャーロットがエドワードの方を見上げると、エドワードは目を伏せたまま答えた。
「子どもの頃のことなど覚えていない」
「そうでしょうね。あなたは私のことなど、とうに忘れてしまったみたい」
ああ、余計なことを言ってしまった。理性がうまく働いてくれない。
エドワードの視線が私に向く。私を蔑む、冷たい目。
目の奥に籠っていた熱が溢れそうになる。ああ、もう、頭が痛い。胸が苦しい。なんで、こんな。
「私は、ずっと……」
ぐるりと視界が回った。
「公妃様!?」
私に駆け寄るシャーロットの足が見えた。
なんで、足? ああ、私、倒れてしまったのね。……この人たちの前で弱った姿なんて、見せたくなかったのに。
今さら後悔してももう遅い。それになんだか、意識を保っているのも、もう、難しい。
私は何もかもを諦めて、目を閉じた。
***
「大丈夫?」
私に優しかったあの子の声がして、ああ、これは夢なんだと思った。
彼の手のひらは私の額を覆うように触れていて、だけど、なんの感触も伝わってこない。だって、これは夢だから。
「大丈夫じゃない」
私が言うと、彼は優しく微笑んだ。そんな顔、もう何年も見ていない。
「大丈夫だよ。寝るまで隣にいるから」
嘘だ。寝るまでどころか、あなたはもうずっと、私の隣になんていてくれないくせに。それなのに、こんな夢見て、馬鹿みたいね。……馬鹿みたいだと、思ってるよ。
「もういい、いてくれなくていい」
私がそう言うと、目の前の男の子は音もなく消えた。もしかしたらそんな人、最初から存在していなかったのかもしれない。私の孤独が生み出した、偽の記憶。私に優しかったあの子なんて、元からどこにもいなかった。
「……エドワード」
私の声は、誰にも届くことなく消えていく。優しい男の子は、名前を呼んだところで再び現れることはなかった。
***
額にじんわりとした温かさを感じて、まだ夢の中にいるのだと思った。だけど、その感触や重みがやけに現実的で、私は疑いながらも重い瞼を開ける。
霞む視界には、まんまるの月が二つ、浮かんでいた。
「やっと起きた」
ヒューの顔を見ると、我慢ができなかった。胸が苦しくて、その苦しさが喉に、鼻に上がって、ついには目からこぼれ落ちる。
「勝手なことをしたから、もう、会えないかと思った」
上擦った声。しゃっくりのように不規則な息をする私を慰めるように、ヒューは額に置いていた手のひらを優しく動かした。
「勝手って?」
「私のために動いてくれているのに、私、それを台無しにしようとした」
「そんなこと、気にしなくていいよ」
ヒューの手が私から離れていく。途端に熱が奪われたみたいになくなって、ああ、そういえばこの人にも体温があるんだった、なんて思った。
「あんた、かわいそうなんだよ」
ヒューの瞳は、私を憐れんでいた。だけどそこに見下しのような感情は見当たらなくて、私は彼の言葉を素直に受け取った。
そうなのかもしれない。
私は、かわいそうだ。夫には冷遇され、義姉から虐待を受け、不幸な女だからと騙されて、私のことを好きだと言う男は私のことを助けはしない。
熱で倒れても、そばにいてくれるのは金で雇った情報屋だけだ。
「話、聞いてやるよ」
ヒューは言葉の割に優しい声で言った。
「話?」
「ああ、話すだけで楽になることってあるだろう」
そんなことって、あるのかな。
懐疑的になりながらも、だけど、彼の優しい声に甘えたくなったのかもしれない。口を開くと、存外つっかえることなく声が溢れた。
「私とエドワードは、幼なじみだったの」
それを皮切りに、私はかつて仲の良かった友人との思い出を話し始めた。




