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20. 報復

 不幸に慣れている、と、あの男は私に言った。あながち間違いでもないのかもしれない。


 チャイルズ伯爵夫人からお茶会の招待を受け、私は参加の回答をした。首都に残っている限り社交を避けるわけにもいかない。


 チャイルズ伯爵邸に到着し、馬車から降りる。私を迎えたのは伯爵邸の使用人ではなく、ヒラリー嬢だった。

 普段は血色が良く可愛らしい彼女の顔は、不自然に青ざめている。


「令嬢、お顔が……」

「公爵夫人、だめです。体調を崩したと言って、お帰りください」

「え?」


 私を馬車に押し戻そうとする彼女に従う暇もなく、主催者であるチャイルズ伯爵夫人が姿を現した。


「あら、グレイ公爵夫人。いらしてくださったんですね。さ、奥へどうぞ」


 使用人に任せることもなくわざわざ夫人本人が迎えに出るなんて、よっぽど私を逃したくないのだろう。ああ、また何かされるんだろうなと、ぼんやりと思った。


 黙ってしまったヒラリー嬢を支えながら、チャイルズ伯爵夫人の後をついていく。

 そうして連れてこられた中庭では、予想通り、私を陥れるための準備が整っていた。


「話題の方々が揃ったようで」


 一つ空いた席の隣。そこには目を見開き驚いた顔のシャーロット・ブレアムが座っていた。


 ああ、この前の報復か。私が彼女たちに反撃したことが許せなかったのだろう。美しい庭に、くすくすと笑い声が響き渡る。


「噂のお二人に来ていただけるなんて思いませんでしたわ」

「お二人とも、同じ馬車ではいらっしゃらないのですね」

「あらやだ、そんなこと」


 くだらない。心底くだらない。

 こんなことをして、一体何になると言うんだ。日々の鬱憤を晴らして、それで彼女たちの生活はよくなるのだろうか。


「お二人は公爵邸ではよくお話しされるんですか?」


 チャイルズ伯爵夫人がわざとらしく体を乗り出した。私は深く息を吐いて、彼女を見つめ返す。


「同じ邸宅と言えど顔を合わせる機会もございませんので」

「ふふ、やだ、そうですよね」

「公爵夫人は公爵閣下の火遊びには寛大なんですから」

「火遊び、……ふふ、火遊びですって」


 じっとりとした視線が、シャーロットに移される。


「シャーロット様は幸せ者ですね。優しい夫人を持つ方に愛されて」


 私はちらりとシャーロットを見やった。以前話した時に思った通り、彼女は社交界のやり取りには慣れていないのだろう。感情を隠すことなく、肩を上げ、体を震わせている。


「……なんなんですか、この会は」


 シャーロットが机を叩いて立ち上がると、淹れたばかりの紅茶がカップから溢れ出た。純白のテーブルクロスに茶色い染みが広がっていく。繊維一本一本をじわじわ染めていく動きが、生き物みたい。


「私は馬鹿にされるために来たわけではございません。皆様は公国を侮辱したいのですか? そうでしたら、相応の措置を取らせていただきますが」

「……あら、あなたが仰るの?」


 そう言ったのは、誰だっただろうか。

 強く怒りを表明していたシャーロットは、その言葉だけで勢いを失ってしまったようだ。わなわなと震えながらも、言い返すことができない。その隙を、また別の誰かが目敏く責める。


「随分と悠々とされた方でいらっしゃるのね。ご自身が社交界に出られる影響もご存じでないとは」

「だとしても、公妃様を侮辱されるのは」

「どなたのせいかしらね」


 紅茶の染みは広がりきったようだ。可愛い茶色の生き物に動きがなくなって、途端につまらなくなる。


「……公妃様、帰りましょう」


 私の腕をシャーロットが引っ張り上げた。

 力のある彼女に掴まれると、私は抵抗もできない。こんな退場の仕方が許されるだろうかと思ったけれど、まあ、いいか。もうこの会に、染みの広がりを見守ること以上に楽しいことはなさそうだ。


 私は愛人に振り回されているだけで望んでこの場から退場するわけではありませんよ、という顔をしっかりと周りに見せつけて、シャーロットに引かれるままにその場を後にした。


 ***


 私を道連れにしたのだから何か言いたいことでもあるのかと思っていたが、シャーロットは馬車の中で不機嫌なまま黙っていた。

 仕方なく、私から話しかける。


「あなたは社交界に慣れた方がいいわ。あんなやり方では、今後もうまくいかない」

「なんですか、それ。馬鹿にされたんですよ?」


 誰のせいで?

 頭の中に浮かんだ言葉は、彼女にぶつけるべきではないと分かっている。すぐに飲み込んで、代わりに『物分かりのいい公爵夫人』を引っ張り出す。


「うまく返せるようになりなさい。あなたも……いつか、公爵夫人になりたいのでしょう?」


 当然そうだろうと思っていたのだけれど、シャーロットは存外に驚いたように目を開いた。震える唇が、ゆっくりと動き出す。


「私が、いつ、そんなことを」

「あら、あの人のことをお好きなんじゃなくて?」

「……ええ、好きですよ。好きですが、公妃様の立場を狙っているわけでは……」


 心外だというように言うものだから、私はつい笑ってしまった。


「随分と謙虚なんですね。愛人の座で満足されるなんて」

「愛人の座……」


 彼女はぼそりと呟いたあと、口元に手を当てて考え込むように黙った。

 そうなると私は暇になるわけで、窓の外に流れる景色をぼーっと眺める。そういえば、ヒラリー嬢は私に肩入れをするような態度を取って良かったのだろうか。彼女の立場が悪くならなければいいのだけど。


「申し訳ありません、公妃様」


 シャーロットに再び話しかけられて、私は彼女に視線を戻した。言葉通り申し訳なさそうな表情を浮かべる彼女は、どこか滑稽に思える。


「公妃様……私のせいで、毎回あのような侮辱を受けていらっしゃるのですか?」


 やっと気付いたのね、なんて言わずに、私は質問を返す。


「あなたも普段、社交の場に参加しているのでしょう? あのように扱われるのは初めてかしら」

「ええ、普段は公爵様と一緒に参加することが多いので、皆さんとてもよくしてくださって……」

「そう……」


 随分と大切に守られていること。

 彼女の罪悪感を軽減させるためだけの茶番に付き合ってあげることが面倒になって、私は口を噤んだ。


「こんな、こんな扱いを受けているなんて、私……」


 シャーロットはまだ何か言い足りないのか、独り言を続ける。どうでもいいから、もう黙ってよ。口に出すほど、可愛いらしくはない。


「公妃様」


 シャーロットは向かい合う私に手を伸ばした。私より一回り大きく、すらりと指の長い美しい手が私の手を包み込む。居心地が悪くなって彼女を見つめると、アメジストの瞳が強い意志を持って私を見返した。薄オレンジのかたちのいい唇が、きゅっと結ばれる。


「私は誓って公爵様と体の関係を持ってはいません」

「……はぁ、そう、ですか」


 動揺を悟られたくなくて、私は彼女から目を逸らせなかった。心臓だけが、私から外れたようにドクドクと音を立てる。


 一体、なんの話を聞かされているんだろう。なんで……愛人のあなたが、わざわざ私にそんなことを言うの?

 いやだ、問い詰めてはいけない。私は二人になんか、興味がない。


「やっぱり、私は公妃様のことを勘違いしていたようです」


 シャーロットは一呼吸置いて、私の手を握る力を強めた。


「私、公妃様を傷つけるようなことをこれ以上続けるつもりはありません。……できるだけ、ですけれど、このようなことが起こらないように……」


 そうですか。

 私の言葉は声になっていただろうか。程なくして馬車はタウンハウスに到着し、私たちは別々の部屋に戻っていった。


 ***


 バシャリと音を立てて、私の頭のてっぺんから水が滴り落ちた。持ってきたばかりの水差しは空になり、代わりにずぶ濡れの私が出来上がる。


「あなたは何をしているの」


 私に水を掛けた張本人である王妃様は、水よりも冷たく私を見下ろした。私は恐怖でまともに働かない頭で、何について叱られているのだろうかと考える。


 ありがたいことに、答えはすぐに提示された。


「公爵とあの愛人は二人で社交界に出ているそうよ」


 そういえば、馬車でシャーロットがそんなことを言っていたなぁと思い出す。あの話を聞いた時にこうなる覚悟ができていなかったのは、なんとものんびりしてしまったものだ。


「あなたと違って随分聡明らしいわ。ほんと、選ぶ子を間違えたみたい」


 おっしゃる通りです、王妃様。

 エドワードは私のような女ではなく、シャーロットのように、強く、美しく、聡明な女が好みだったみたいですね。私が名乗り出たわけじゃないのですから、どうにか解放していただけませんか。

 そんなこと、もちろん言えるわけがないのだけれど。


 王妃様は侍女たちに耳打ちをした。今日はどんな仕置きをされるのだろう。

 侍女たちは私の両脇を抱え、囚人のように引き摺っていく。連れて行かれたのは、バルコニーだ。


「ドレスが乾くまで外に出ていなさい」


 王妃様はそれだけ言って、ぴしゃりと扉を閉めた。鍵が掛けられ、私は一人、放り出されたままになる。


 風が吹いた。

 水を含んだドレスが肌に張り付いて、私から体温を奪っていく。数分もすれば、私の体はガタガタと震え出した。


 寒い、寒い。体の表面だけだった冷えはいつの間にか内臓まで侵蝕し、胃が痙攣を起こす。気持ちが悪い、吐きそうだ。何も入っていない胃袋はただ、嗚咽を漏らすだけ。


 頭が痛い。痺れて、思考ができなくなっていく。さむい、助けて。


 自分の体を抱きしめるようにして震えていると、扉がガタリと鳴った。ガラスの扉の向こうには白髪を纏め上げた男が私を見ていた。


「エイベル、中に……」


 私はエイベルに手を伸ばした。

 私を好きだというこの男は、もちろん私を助けにきたのだろうと疑いもせずに。


 私の希望はいとも簡単に崩れ落ちる。


 エイベルは凍える私を見下ろして、扉の向こう、恍惚とした表情を浮かべるだけだった。

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