2. 折檻
※本エピソードには流血を伴う暴力表現が含まれます。
※流血を伴う暴力表現は現時点では本エピソードのみの予定です。
ソファから立ち上がると、ぐわんと地面が揺れた。地震でも起きたのかと思ったけれど、なんのことはない。揺れているのは私の身体だった。何がそんなに愉快なのか、膝がガクガクと笑う。
ああ、逃げ出したい。だけど、そんな力も勇気も、私にはない。
私は後ろを向き、ドレスのスカートをたくし上げる。縋るには頼りない裾をそれでも強く掴んで、私は来るだろう衝撃に耐える準備をした。
――空気を裂く音。次いでバシンと音がした瞬間、ふくらはぎに燃えるような痛みが走った。
「あぁ……っ!」
熱い、熱い、熱い……!
鞭打たれたふくらはぎが熱い。それなのに内臓だけが冷えきっていて、その温度差に体が震えた。目の前が白黒に光って、胃袋になめくじが這いずり回る。
「ふ……、情けない声。お前たち、オフィリアを手伝っておやりなさい」
王妃様に命令された侍女たちは、膝をついた私の両脇を抱え持ち上げた。私の足を無理やり地面につけさせて、鞭が当たりやすいようにドレスを腰まで捲り上げる。
ドロワーズが丸出しの、情けない格好。
「どうしてあなたはあの男を誘惑することもできないのでしょう」
「う……あぁ、申し訳……、あぁっ!」
「私、謝れなんて言ったかしら」
「いえ……ああっ、う……っ、王妃様ぁ……っ!」
熱くて、痛くて、くらくらする。鞭が当たるたびに電気が走ったように体が震えた。
何度叩かれたか分からない。下半身の感覚がなくなったところで、私の両腕が解放された。
自力で立つことなんて出来ず、床にへばりつく。涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃの私を見下ろして、王妃様は満足したように笑った。
「血が止まったら帰りなさい」
王妃様は侍女を引き連れ部屋を出ていった。美しい応接室にはボロボロの私だけが残される。
ああ、やっと終わった。ほとんど働かなくなった頭でもそれだけは分かって、私は安堵の息を吐いた。それから一人床に突っ伏して、自分の立場を呪った。
政略結婚だった。
独立を主張するシェルヴァ公国と、それを認めないブリジア王国。独立戦争一歩手前の緊張状態が続く中、両国のつけた落としどころ。それが、シェルヴァ公国の公爵エドワードと、私――ヴェネッサ王妃の生家であるランドルフ侯爵家の養子で、『エドワードの好み』らしいオフィリア・ランドルフの政略結婚だった。
落としどころ、なんて、綺麗事かもしれない。
私に早く子を産ませて、家門からシェルヴァ公国の跡継ぎを出したいランドルフ侯爵家。和平のために政略結婚を受け入れたものの、早く離婚をして王国との関係を切りたいエドワード。
結局彼らは、私を通して未だに争いあっているだけなのだ。
「オフィリア様」
いつの間に扉が開いていたのか、後ろから男の声がした。男はゆったりとした足取りで私の隣に来ると、膝をつき、脂汗だらけの私の顔を覗き込んだ。
「手当てに参りました」
「……エイ、ベル」
「はい、エイベルですよ」
エイベルは嬉しそうに微笑んで、絹のような艶やかな白髪を一つにまとめ上げた。
色素が薄く整った顔立ちをしたこの男は、ランドルフ侯爵家の傍系で、若くして王妃様の侍医を勤めている。その儚げな容姿と役職から聖人だなんて呼ばれているが、私はどうもこの男が苦手だった。
エイベルは小さくて細い丸眼鏡の奥、グレーの瞳に微かな火を灯して、私のふくらはぎに触れた。
「ああ、御労しい。白い肌に真っ赤な血が映えて、ああ……っ」
「い゛っ……」
エイベルの指先が鞭で裂かれた私の傷口を撫でた。いつの間にか痛覚が戻っていた私の体に、痺れるような痛みが走る。
エイベルは私の傷に触れることを好んだ。手当ての前に必ず指を這わせて、血を掬い、私の苦痛に体を震わせるのだ。こんな男の何が聖人だ。気持ちが悪くて、嫌になる。
「はやく、……ぅ、あ゛っ、手当てを、しなさい……っ!」
切れ切れに睨みつければ、エイベルは恍惚と微笑んだ。
それからガーゼと消毒液を取り出して、私の傷を消毒していく。
消毒液がかかるたびに、私の体は痛みで跳ね上がった。
馬鹿みたいだ。こんな気持ちの悪い医者に頼りたくないのに、この男以外、私の手当てをする者なんていない。私はどれだけ情けなくても、こうしてこの男の嫌がらせとさえ思えるような治療を受けなければならない。
「オフィリア様、痛み止めです」
包帯を巻き終わったエイベルは私に水の入ったコップと丸薬を渡した。水を喉に流し込むと、粘ついた口の中がすっきりして少しだけ気分がマシになる。どうか早く効いてくれ。意味がないとは知っていながら、私は無情な神に祈りを捧げた。
エイベルは化膿止めの薬や予備の包帯をまとめ終わったところで、あたりを憚り私の耳元にそっと口を寄せた。
「オフィリア様。以前お願いされていたものの準備ができました。近日中に直接ご連絡がいくと思います」
「……そう、分かったわ」
首筋にエイベルの息が掛かって、全身に鳥肌が立つ。
私はふくらはぎを撫で続けるエイベルの腕を掴んで、睨み上げた。
「痛みが治まったら勝手に帰るから、出て行きなさい」
「……承知いたしました。侍女を呼ぶベルをお手元に置いておきますね」
エイベルは名残惜しそうに微笑んだあと、静かに部屋を出て行った。
***
薬が効いた頃にはすっかり夕方になっていた。
馬車の中から夕焼けを見上げていると、どうしようもなく胸が締め付けられる。
私の周りには味方なんていない。隣で私の荷物を持つアデルだって、王妃様から言われて私の面倒を見ているだけだ。公国での私の様子を王妃様に伝えているという点では、むしろ敵なのかもしれない。
タウンハウスに到着して、馬車から降りる。肉の裂かれたふくらはぎは痛んだけれど、痛み止めのおかげでゆっくりであれば歩けるようになっていた。
美しい庭。もうすぐ季節が終わり枯れるだろう花が最後の華やぎを見せていて、私の心はささやかに癒された。
ふと、視界の奥、二つの影が見えた。それが誰のものなのか分かった瞬間に、私の気持ちはまた沈んでしまう。
あーあ、せっかく少しマシな気分になっていたのに。夫と愛人の逢瀬に遭遇するなんて、今日は本当についてない。
影は段々と大きくなり、やがてはっきりと人の姿になる。仲睦まじく寄り添う私の夫とその愛人が、私の前に立ちはだかった。