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18. イグラド王国

 生唾を飲む音。空気の震えを通して、彼の緊張が伝わってくる。


「俺と結婚する気になった?」


 声音がいつもよりも煽情的で、私の体は彼の色香に当てられ縮こまった。

 視界の外、彼の小指が私の小指を絡めとる。


 返事を間違えたら、捕まえられてしまいそう。私は彼から目を逸らして、敢えて明るい声を出した。


「考えてもいいかなって、思って」


 心臓が嫌な音を立てた。正しい答えができただろうか。横目だけでカーティス王子を見ると、彼は緊張を解くようにふっと笑った。


「いいところだよ、イグラド王国は」


 優しい声に空気が緩んで、私は安堵の息を吐く。よかった、間違えたわけじゃなかったんだ。

 ビールで喉の渇きを潤して、カーティス王子に聞き返す。


「西の海に浮かぶ島国、だったかしら。私、それくらいしか知らないわ」

「ブリジア王国と正式に国交が結ばれてからまだ一年だからね。隣国とはいえ海を挟んでいる。お互いの国を行き来する人もいないし、あまり知られていないんだろう」


 私は頭の隅で王宮でのパーティを思い出していた。うろ覚えではあったが、カーティス王子が今回の社交界シーズンに参加しているのは、国交が樹立して一年経ち、より親交を深めるために、と言っていた気がする。


「海は見たことがあるか? イグラドの海は宝石を溶かしたように美しいんだ。朝はアクアマリン、昼はブルートパーズ、夕方はファイアオパールで、夜はサファイア。俺は夜、静かな海を一人で眺めるのが好きだった」


 私は目の前に広がる草原に遥かな海を重ね合わせる。暗闇の中に月の光を反射する、深いサファイアの海。


「王子様が一人で夜に出歩くなんて、危ないんじゃないかしら」

「今の君の行動よりマシさ」


 人のいる街と静かな海ではまた違うとは思うけれど。私はそれ以上、追求するのをやめた。


「王宮は真っ白な石で出来ているんだ。ちょうど君の姉様……王妃陛下の離宮に似ているから、君も過ごしやすいんじゃないかな」


 私はいつも折檻を受ける、白くて美しい離宮を思い出す。


「怪我をすれば血が目立ちそう」

「削ればいいだけさ」


 王妃様も、私の血がついたところを削らせているのだろうか。私の血は、美しい離宮に一滴も染み込むこともなく削り取られる。


「ブリジア王国との違いは……食文化だな。特に海の近くでは魚を使った料理が多いんだ。魚料理は好き?」

「魚? 何回かしか食べたことないわ。多分、苦手じゃなかったと思うけど」

「気に入ってもらえると嬉しい。あとはそうだな、経済はブリジア王国とそう変わらないけど……二年前、真珠が取れるようになってからは以前よりもいい暮らしをしてるかな。今度君に送るよ」


 真珠が取れるという話は聞いたことがあった。

 一年前、社交界では誰が始めにイグラド産の真珠を手に入れるかと話題になっていた。初めに手に入れたのが誰だったのかは覚えていないけれど。


 私は真珠のネックレスが自分の首にかけられるところを想像する。首だけ豪華で、顔が浮く。


「変な噂になるから要らないわ」


 素っ気なく答えたはずだったのに、カーティス王子は何を思ったのか、絡めていた小指を離し、その代わりに手を重ねた。驚いて顔を上げると、カーティス王子は首を傾げて、私を誘惑するように甘い声を出した。


「噂になろうよ」


 彼の肩越しに、星が流れるのが見えた。初めて見る流れ星は、案外呆気なくて。


「今日、君が俺に会いに来てくれて、嬉しかった。君が俺を選んでくれるなら、俺は君のために、何でもするよ」


 なんでも? それって――私が忘れたいことを、全部忘れさせてくれるの? 何も考えなくてもいいように、頭の中を埋めてくれるの?


 私は願いを声に出すことなく、ただ、流れ星の落ちた先を見ていた。


 ***


 バルコニーに着くと、足早に部屋に入った。私を送り届けてくれたヒューは、少し遅れて私の後を追う。


 私は宝石の入った袋をヒューに渡した。カーティス王子の居場所の情報料と、私を連れ出してくれたお礼だ。


「送ってくれてありがとう」


 ヒューは黙ってそれを受け取った。中身を確認して、懐に入れる。

 その様子はなにかおかしかった。いつもみたいに私を揶揄う生意気な笑顔も、軽口もない。


 不思議ではあったけれど、私もヒューと話したくなかったからちょうどいい。


「出て行かないの?」


 ヒューは答えることも、出ていくこともなかった。風が窓を揺らす音だけが響いて、心臓が握りつぶされそうになる。

 もう帰ってよ。そう言おうと口を開いた瞬間に、ヒューは温度もなく言い放った。


「情報屋は基本的に聞かれたことしか答えない」


 唐突な話に、顔の左半分がぴくりと引き攣る。


「どうしたの、急に」

「だからあんたがすることを放っておいたんだ。だけど、これは広い意味で俺の仕事の範囲だと解釈することにした」


 自分を納得させるような独り言のようにも聞こえた。

 ヒューはまた少しだけ考え込むように黙って、それから真っ直ぐと私を見つめ直す。


 お月様の瞳がふたつ、私を捉えた。


「イグラド王国に嫁ぐことを選択肢だと思っているのか」


 責めるような視線。逃れたくて、私は意味もなくドレスの裾を整える。


「決めたわけじゃないわ。話を聞いてみただけ」

「……はっ! まだそんなことを言うのか」


 私の誤魔化しを、ヒューは許してくれなかった。いつもみたいに音もなく私に近付いてきて、気がつけばあまりにも近くにいたから、私は威圧される。


「なに、を……」

「あんたは馬鹿じゃない。気付いているはずだ。イグラド王国が無事生活できる場所なら、俺がそう報告すると」

「もう寝たいの。早く出ていってよ」

「最後まで聞くんだ」


 両腕を掴まれて、私は隠れることもできなくなった。せめてもの抵抗にヒューを睨みつける。


「嫌よ、帰って」

「帰らない」


 ヒューは深くため息をついて、それから突き刺すように言い放った。


「地獄だぞ、あの国は」

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