13. 偶然
カーティス王子は私が返事をするのを待たずに向かいに座った。無礼だと思ったけれど、立場の違いがある。私が彼に礼を説く方が無礼だ。
私は諦めて、彼と席を共にする覚悟を決めた。
「お供の人たちは?」
カーティス王子は給仕に注文を伝え終えると私に向き直った。私が首を横に振ると、驚いたように目を開く。
「……本当に? 思った以上に酷いな」
「好きなところに一人で行くことのできる自由はありますわ」
そういう扱いを受けること自体は惨めではあったけれど、実態はそう悪くはないと、ちょうど思っていたところだったのだ。
「……まさか、あの夜も本当に一人で抜け出していた?」
カーティス王子の問いに、私は返答に困ってしまう。
あの夜は、ヒューがいた。安全な道を運んでもらって、安全な店を教えてくれた。だけど、情報屋の存在をカーティス王子に言うわけにもいかない。
私の無言を肯定と捉えたのだろう。カーティス王子は苛立ったように口を開いた。
「二度としない方がいい。危険を侵してまでする遊びじゃない」
「心配してくださるのですか?」
「当たり前だろう。君は……」
「お待たせ致しました」
ちょうど給仕人が顔を出して、カーティス王子は口を閉じた。いつの間にか険しくなっていた表情を緩めて、パーティで会った時のような美しく優雅な笑顔で給仕人に礼を言う。
紅茶が二つ、ケーキが三つ、机に並ぶ。
カーティス王子はケーキの数が多いことに怪訝な顔をしていたが、私が自分の近くに二つのケーキを引き寄せると、それ以上は何も言わなかった。
「ご結婚相手は見つかりましたか?」
私はチョコレートケーキのクリームを弄びながら聞いた。
最適な話題だとも思わなかったけれど、他に思いつくこともなかったのだ。
カーティス王子は紅茶を一口飲んで、胡散くさい笑顔を作った。
「君以外に心を惹かれる人なんて見つからない」
「そうですか」
くだらなくなって、ケーキを一口食べる。口の中に甘い味が広がって、それだけで少し幸せを感じた。
「君は? パーティで旦那様に連れて行かれていただろう。何を話したんだ?」
私の小さな幸せは、喉から腹に落ちて、すぐに効力を失った。口の中には砂のようなじゃりじゃりした砂糖が溶け残る。
「夫婦の問題ですから」
「素っ気ないね。ビールを飲まないと話してくれない?」
「そういう理由でもないのですけれど」
「一度は気楽に話した仲なんだ。そうやって距離を置かれるのは寂しいな」
寂しい、なんて、私の罪悪感をくすぐるような言葉選びだ。いやらしくて、分かっているのに効果的で、嫌になる。
私はフォークを置いて、姿勢を正した。
「……あの日のことは、全てなかったことにしてほしいのです。私は今後も付き合いがある方に、内情を知られたかったわけではございません」
一生会うことがない人に、燻った感情を捨てるためだけにした会話だ。受け止められたくも、引き摺られたくもない。
それに、私はどうしてもあの夜出会った男がカーティス王子だったことを好意的に思えなかった。溜め込んだ嫌悪感は、小さな呟きとなって口から漏れる。
「カーティス王子殿下だって、あの夜、平民の女を一晩遊んで捨てるつもりだったんでしょう?」
だって、王族が平民の女との夜の責任を取るとは思えない。酒場で出会った女に愛を仄めかして弄ぶ。無責任で、非道な男だ。
私の無礼な問い掛けにカーティス王子は不愉快そうに眉を顰めた。そうしてため息をついて、弁解するように言った。
「あの夜、俺は君が貴族だと気付いていた」
今度は私が眉を顰めなければならなかった。
「これだけ美しくて……容姿だけじゃなくて、手入れのされた艶のある髪と肌を持っていて、酒場に慣れていない。酒は飲むけどビールは飲んだことがないだなんて、どう考えても貴族のお嬢様だろう。身分を隠すつもりなら、君はもっときちんと隠すべきだった」
「貴族だと思って宿に誘ったんですか?」
あの日の落ち度を指摘された羞恥心を誤魔化したかったのだと思う。早口で問い詰めれば、カーティス王子は面倒そうに息を吐いた。
「言っただろう、君と結婚したいと。貴族なら純潔を奪えば婚姻の理由になる。既婚者の君は姦淫罪に問われるかもしれないが、俺が妻に望んでいると言えばそう重大な罰も受けない。せいぜい国外追放だろうけれど、俺にとってはそれも都合がいい。俺があの日君を抱こうとしたことは、君を手に入れるためになんの問題もなかった」
悪びれもせず言うものだから、私は驚いて無意識に口が開いてしまった。言いたいことはたくさんあったけれど、どうしてもある一点が気になって声が出なくなる。
……私が純潔だと、どうして知っているの。
夫婦仲が良くない話はしたけれど、初夜すら迎えていないことまでは言っていないはずなのに。
恥ずかしさで頭が沸騰しそうになりながらも、私は気付かれないよう紅茶を飲んで誤魔化した。手が震えて、カップとソーサーがぶつかる音が端なく響く。
「随分と策士だったんですね」
やっと出た言葉は随分と間抜けな感想だった。カーティス王子はフォークで彼のケーキを掬い、私の口元に差し出した。
「そうまでして君を手に入れたいんだ」
「……信じられません。私たち、たった数時間話しただけですよね」
カーティス王子は私の拒絶を気にもしないようで、差し出したフォークを自分の方に戻し、優雅に口に含んだ。
「話した時間が不満? 俺はあの日、君に出会えたことは運命だと思っているんだけど」
「運命なんて、ロマンチストですね。そんな言葉、舞台俳優か詐欺師しか使いません」
「ロマンチストにもなるさ。今日だって、俺は君に会いたいと思いながら街を歩いていただけで君と出会えたんだ」
「……ただの偶然でしょう」
「偶然だって構わない」
私はつい彼と目を合わせてしまう。エメラルドの瞳はその価値を見せつけるかのように微笑んだ。
「俺は君との偶然を、運命にしたいんだ」
ざわりと、胸の奥が毛羽立った。
気障な台詞だ。余りにも嘘くさい。けれどこの美しい男が言うと、まるで自分が歌劇の主人公になったように勘違いしてしまう。愛人のいる夫に冷遇されるヒロインに手を差し伸べる隣国の王子様……なんて、馬鹿馬鹿しい。
私は自分の妄想を笑った。あまりにも都合のいい展開で、あくびが出る。けれど、その都合の良さに一瞬だけ頼ってしまいたくなったのも事実だ。浅ましくて、嫌になる。
「……殿下に相応しいご縁が訪れますよう、陰ながらお祈りいたしますわ」
私はそれだけ言って立ち上がった。
カーティス王子を一瞥すると、彼はあの夜と同じ笑顔で私に手を振っていた。
***
その茶会の誘いを受けたのは、ほとんど義務感だった。
王宮でのパーティが終わってからいくつかの招待状は届いていたものの、怪我の具合もありしばらく断り続けていた。けれど、一応は公爵夫人という立場である私がいつまでも顔を出さないわけにはいかない。
結局招待状の中から一つ選び、参加の返事をしたのだ。
オーモンド伯爵邸で行われたお茶会は、私が知るような着座式のものではなく、立食式だった。私が社交界に参加していないうちに流行りが変わったのか、オーモンド伯爵邸の庭園が特別に美しいために企画された形式なのかは分からなかったけれど、庭園で花を見ながら会話をするこのお茶会を好ましく感じた。
色とりどりの花々と、花の匂いを引き立てるためのシンプルな紅茶。すぐに飲めるよう作られた一口サイズのティーカップも珍しい。
薔薇で覆われたゲートに見惚れていると、後ろから私を呼ぶ声がした。
「オフィリア様」
一瞬で背筋に悪寒が走る。おそるおそる振り向くと、華やかな薔薇がよく似合う男がふんわりと微笑んでいた。




