117. エピローグ 2
タマラ様の誕生日パーティは主役の人柄を思わせる和やかな雰囲気に包まれていた。皆に愛される、かわいい末の王女様。彼女を見ていると自然と頬が緩んだ。
私はタマラ様へのお祝いを済ませたあと、お世話になった方々へ帰国前最後の挨拶をして回った。皆寂しくなるだとか、次はいつ来るのかとか、ブリジアに訪ねてもいいかとか、優しい言葉を掛けてくださる。
そうして数時間が過ぎ、そろそろ部屋へ戻ろうかと思った時、ヨナーシュ様に声を掛けられる、
「オフィリア、一杯どう?」
ヨナーシュ様はワイングラスを二つ手にしていた。エストラシアのワインは樽の香りが強く、特徴的な味わいがある。これを飲まずに帰国するのはもったいない。
「では、最後に一杯」
「最後? ああ、もしかして戻ろうとしていた?」
「帰国の準備をと思っていたのですが、ヨナーシュ様の持っていらっしゃるワインが美味しそうで」
「はは、君がワインが好きで助かったな」
笑いながら、私たちはバルコニーへ移動する。
エストラシアの夜空にはブリジアとは違う星が浮かんでいる。これも、私がこの国に来て驚いたことの一つだ。私はエストラシアに来て初めて夜空に浮かぶ星が国によって違うことを知った。そうしてひどく、寂しくなった。遠く離れてしまえば、同じ夜空を見ることも叶わないのだ。
「タマラ様のドレス姿、美しかったですね」
ワインを一口含みながら話を振ると、ヨナーシュ様は呆れたようにため息をついた。
「姿だけ、ね。もう少し大人になってくれるよう、君からも言っておいてくれない?」
「ふふ、私はタマラ様と同じ齢の頃、もっとお転婆でしたよ」
「君が? 信じられないな」
ヨナーシュ様は冗談だと思っているのだろう。話を流して、ぐっと、ワインを呷る。
「帰国は明後日だっけ」
私は頷く。
「明後日の朝、ここを発つ予定です」
「明日は何を?」
「大学へ挨拶へ行って、街を散策しようかと。暫くはこちらへ来ることもできないでしょうから」
「そうか。……寂しいね」
ふと、ヨナーシュ様の声にエストラシアの空気に似た甘さが交じる。あ、と思って、私は慌てて口を開いた。
「私も皆様にお会いできなくなるのは寂しいです」
「皆様、ね」
うまく誤魔化せなかったのだろうか、不自然な沈黙が走る。どう切り抜けるべきか考えていると、ヨナーシュ様は不意に、声を低めた。
「君は俺の気持ちに気付いていただろう」
確信を持った言い方だ。誤魔化す言葉を頭に並べたけれど、どれもあまりにもわざとらしく、私は逃げることを諦めた。
両手でグラスを持って、ヨナーシュ様に向き直る。
「……ヨナーシュ様が言わないでいてくださったから、私は心地良く過ごせました」
「よく言うよ」
ヨナーシュ様は嘲笑混じりに言った。
「俺との仲を否定しないことで男を寄り付かせないようにしてただろう。それに、俺が君のことを好きだから色々と面倒を見ていることも気付いていた」
恥ずかしさで、顔が熱くなる。
「……申し訳、ありません」
「別にいいよ。俺は君の計算高いところも好きだった」
ヨナーシュ様はサイドテーブルにグラスを置いて、私を見つめ直した。
「オフィリア。君は、この国に残る気はない?」
どきりと心臓が鳴る。ヨナーシュ様は本気で私のことを伴侶にと考えているのだろうか。頭の中でスラヴェナ様が私を煽る。愛の国の男は妻を大切にするわ。私はいつか、夫に大切にされる未来を夢見ていたことを思い出す。それでも、私は。
「……申し訳ありません。ヨナーシュ様のお気持ちに応えることはできません」
「……知っていたさ」
ヨナーシュ様は小さく言って、それから伸びをした。
「あーあ、振られてしまった」
その声音はいつも通り柔らかく、私が気にしすぎないよう気遣われているのだと分かった。頭の中でスラヴェナ様が「惜しいことをしたわね!」と笑う。
ヨナーシュ様は手を下ろして、私を振り返った。
「今日はここに泊まるんだろう? 君の部屋にプレゼントを用意しておいた」
「プレゼント、ですか?」
「送別の品だよ。振った男からのプレゼントは気持ちが悪い?」
「……そんなわけ、ないじゃないですか」
ヨナーシュ様は「よかった」と言って、得意気に私を流し見た。
「プレゼントを見た君はきっと俺のことを、さすが愛の国の王子だと見直すはずさ」
「ふふ、楽しみにしていますね」
「ああ、もう戻って良い。付き合わせて悪かったね」
ヨナーシュ様は私から顔を逸らし、夜空を見上げた。私はエストラシア式の礼をして、バルコニーを後にした。
***
王宮の廊下を一人歩く。皆はまだパーティを楽しんでいるのだろう、私の靴音だけが寂しく響いた。
ヨナーシュ様のことを考える。私がこの国で充実した生活を送れたのは、間違いなくヨナーシュ様の支えがあったからだ。ヨナーシュ様は私が周辺諸国との繋がりを求めれば同じく留学中である諸外国の貴族を、興味のある分野の学び方を相談すれば適した研究者を紹介してくださった。私の仲介する留学生の受け入れに尽力してくださったのもヨナーシュ様だ。
無論、私への好意だけでしてくださったことではないとは思うけれど、それでも全く私情がなかったと言えば嘘になるだろう。
ヨナーシュ様は、いい人だ。ただの語学教師で留学生の私にも隔てなく接してくださった。権力を傘にきた態度をとったこともない。私なんかにはもったいない縁談だ。
それでも。
部屋の前に着く。明後日、私はこの国を発つ。ブリジア王国に着くにはひと月ほどかかるだろう。まずは叔父様の元へ帰って、それから。胸の中に不安が渦巻く。それから、私はどこへ行くつもりなのだろう。
……なんて、こんなところで考えても仕方がないことだ。私は頭を振って憂鬱を払い、扉に手をかけた。
ノブを回すと、扉の隙間から光が漏れた。出る時に消し忘れたのだろうか。火の始末は気をつけていたはずなのに。もしくは、使用人の誰かが灯りをつけておいてくれたのかもしれない。私は訝しがりながら、扉を開ける。
——元来私は、都合のいい妄想に耽る癖があった。なんでも思ったことを、頭の中に物語として浮かび上がらせる。けれど、いくらなんでも幻覚を見たことはないはずだ。それなのに。
エストラシア風の装飾。甘い香の匂い。ここにいるはずのない人がいるのは、幻覚でなければなんなのだろう。
「……久しぶり、オフィリア」
エドワードの声は、確かに私の鼓膜を揺らした。




