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116. エピローグ 1

 甘いお砂糖と少し変わったスパイスの匂い。初めてこの土地に足を踏み入れた時、お菓子でできた国みたいだと驚いたのを覚えている。


 甘い匂いを浴びながら王宮の廊下を歩く。すれ違う官吏たちと挨拶を交わす。物知らずだった私も三年もいればこの場所にうまく馴染めたようだ。それが嬉しくて、少しだけ寂しい。


 感慨深く思っていると、廊下の向こうから一人の少女が現れた。私がブリジア語の授業を受け持っていたタマラ様だ。タマラ様は私を見つけると、嬉しそうに走り出す。


「先生! いらしてたんですね!」

「タマラ様、はしたないですよ」


 タマラ様は私の言うことも聞かず、勢いよく抱きついてきた。この国の人々は愛情表現が豊かだ。『愛の国』を自称する彼らは親しい仲では出会い頭に抱擁を交わすのも珍しくない。


 タマラ様は私の首筋に鼻を押し付けて、えへへとあどけなく笑った。


「私、先生の匂い好き。お花の匂いがする。ブリジアの人はみんなこうなの?」


 私はお返しにタマラ様の頭にキスをする。香を焚く文化のあるこの国は皆香木の匂いがして、私にかつて親しかった友人を思い出させた。


「どうでしょう。ブリジアでは友人でも抱擁を交わすことはないので、私にも分かりません」

「友だちの匂いを知らないのね、変なの」


 変なのではなく、そういう文化なのですよ。私がそう指摘すると、タマラ様は「先生、もう先生じゃないのにそういうこと言うの?」と唇を尖らせた。


 タマラ様の言う通り、私の教師契約は先日終了している。それでも未だこの国に滞在しているのは、タマラ様の誕生日パーティに参加するためだ。


「タマラ様、パーティの準備はされなくてよろしいのですか?」


 聞けば、タマラ様は言い訳をするように下を向いた。


「ちょうど今するところだったの。それに、今日はそんなに着飾らなくてもいいの。大切なのは明日だから」


 パーティは二日間行われる。初日である今日は王族やタマラ様の友人のみを招待している小規模なもので、国内の要人や諸外国の客人を招待している明日の催しと比べると、準備もそう大変でないのかもしれない。


「でも、先生も準備していないわ。間に合うの?」


 タマラ様が仕返しだ、と笑う。


「残念ですが、私もタマラ様と同じ。今から準備をするのです」

「ここで準備するの?」

「ええ、スラヴェナ様がお手伝いしてくださるのです」

「お姉様が?」


 その時、話題に出たばかりのスラヴェナ様の声がした。


「まあ、タマラが引き止めていたの?」


 私は振り向いて礼をする。


「お待たせしてしまい申し訳ありません、スラヴェナ様」

「タマラのせいでしょ? 仕方ないわよ」


 私と抱擁を交わしたあと、スラヴェナ様はタマラ様に向き直った。


「ほら、主役がいつまでものんびりしていないの。早く行きなさい」

「はーい。先生、またパーティでね!」


 タマラ様は手を振って走っていった。

 スラヴェナ様はタマラ様の後ろ姿を眺めながらため息をつく。


「まったく、オフィリアもタマラに強く言っていいのよ? あの子、末っ子だからって甘えてるの」

「ふふ、可愛らしいですよ」

「あら、あなたもあの子を甘えん坊のままにしている犯人の一人なのね?」


 スラヴェナ様はわざとらしく眉を上げた。


「まあいいわ。ほら、早くパーティの準備をしましょう」


 私はスラヴェナ様に手を引かれて、ドレッシングルームに向かった。


***


「それでね、イゴルったら……」


 スラヴェナ様は侍女に化粧を施されている私を横に、旦那様との惚気話を続けていた。旦那様であるイゴル様とは結婚してもう十年近く立つのに、二人の仲は冷めるどころか年々深まっていっているようだ。


「さすがは皆が憧れる『ラウラの恋人』ですね」


 私が言うと、スラヴェナ王女は自慢をするように顎を上げた。


 『ラウラの恋人』はエストラシアで人気の歌劇だ。王女と平民官吏の恋物語であるこの歌劇の題材となっているのはまさに、スラヴェナ様とイゴル様の結婚だ。私は昔、スラヴェナ様の結婚は政略結婚だと誤解していたが、お二人は大恋愛の末ご結婚されたらしい。この愛の国では立場よりも人の心を重要視している。


 イゴル様との惚気もひと段落ついた頃、化粧が終わり、ドレスの着付けに入る。コルセットを締められている私を他所に、スラヴェナ様は私のドレスを眺めていた。


「今日のドレス、ヨナーシュお兄様が選んだのでしょう?」


 私は頷く。


 ヨナーシュ様はエストラシアの第七王子だ。エストラシアの教育改革を推進している方で、自身も私の留学先である王立大学を卒業されている。入国前、語学教師の傍らに大学に通いたいという私の条件に対応してくださったのもヨナーシュ様で、その縁で留学中に何かとお世話をしてくださっていた。


「ドレスだけでなくエスコートもお兄様よね」

「……パートナーのいない私を気遣ってくださって」

「そうかしら。オフィリアはヨナーシュお兄様のことどう思ってるの?」


 スラヴェナ様が悪戯げに聞いた。私は咳払いをして答える。


「……お優しい方です。ご公務にも熱心で」

「そうじゃなくて! 分かってるでしょう?」


 スラヴェナ様が私の耳元で囁く。


「お兄様、多分、あなたのこと好きよ」


 私は一瞬、言葉を詰まらせる。けれどそれは本当に一瞬で、すぐに純粋な振りをする。


「ご本人から伺っていないことで舞い上がるのも失礼にあたりますでしょう」

「誤魔化すのが好きね」


 私程度の演技はスラヴェナ様には気づかれてしまったようだ。スラヴェナ様は呆れたように息を吐いた。


「故郷に置いてきた男がそんなに大切?」


 今度こそ本当に言葉を詰まらせてしまった。この国の人たちは恋の話が好きなのだ。以前タマラ様にせがまれて自分の話をしたことがあったが、それがスラヴェナ様にまで伝わってしまったのだろう。


 スラヴェナ様は侍女の持っていたネックレスを奪い、私の首に抱きつくようにして着けた。去り際、耳元で呟く。


「三年間連絡も取らない男が、まだあなたを待ってるとお思い? 男という生き物を侮っているのではなくて?」

「……愛の国の王女様が夢のないことを」

「この国ではいつだって最後の恋が本物なのよ!」


 スラヴェナ様は私の手を取って、鏡の前に立たせた。鏡の中にはエストラシア風のドレスを上手に着こなした女が現れる。


「愛の国の男は妻を大切にするわ。ほら、エストラシアのドレスも似合っているでしょう」


 その時、ノックの音が聞こえた。スラヴェナ様が返事をすると、私のドレスと同じ色のスーツを着たヨナーシュ様が姿を見せる。


「お邪魔しても大丈夫かな」

「お兄様! ええ、今オフィリアの準備ができたところよ!」


 スラヴェナ様は私の両肩を掴んで、ヨナーシュ様の方に向けた。ヨナーシュ様は一度だけ視線を上下に動かしたあと、ふわりと笑った。


「うん、似合ってる」


 私はほっと息をつく。


「流石のお見立てです。素敵なドレスを送ってくださりありがとうございます」

「こちらこそ、美しく着こなしてくれて嬉しいよ」


 さすがは愛の国の男だ。嫌味のない褒め言葉は素直に受け取ることができる。


「さあ、行こうか」


 ヨナーシュ様が肘を曲げる。私はそっと手を添える。スラヴェナ様の笑い声を背景音に、私たちはドレッシングルームを後にした。

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