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115. 強い人に

「ヒュー」


 胸の奥が震えた。なんだよ、オフィリア様。懐かしい声に、私は我慢ができなくなる。しゃっくりのような声を上げて泣き喚いた。


「もう来てくれないって、言ったじゃない」

「そうなるともいい、とも言っただろう。俺だって、オフィリア様のような客がいいんだ」

「近くにいたなら、助けてよ」

「……ごめんな。俺は依頼がなければ動けないから」

「分かってる、分かってるわよ……!」

「ああ」


 ヒューはぐるりと回って木から降りた。


「よく頑張ったな」


 ずるい。そうやって、ただの情報屋のくせに優しくするんだから。


「あなたの情報、嘘ばっかりだったわ」


 私は嫌味を言いたくなって、どうでもいい難癖をつける。


「なにがマゾヒストよ。あの男、私のこと監禁して、襲ってきたのよ」

「他人の頭の中は覗けないって言っただろう。適当に言ったことを信じるなよ。まあただ、あの変態は」


 ヒューは心底嫌そうに眉を顰めた。


「あいつはな、あんたを傷つけることが目的じゃなかったんだ。あんたに憎まれて——殺されたかったんだよ」


 逃げ際、切れ切れになりながらエイベルが言っていたことを思い出す。


 ——絶対に逃がさない。私を殺すのは、あなたなのに。


「……気持ち悪い」

「ああ、だから助かった」


 私を殺すことじゃなくて、私に殺されることが目的だったから。


「よかったな、あいつが度を越した変態で。あの変態は本懐を遂げられなくて、地獄で喚いているさ」

「興味ないわ」


 あまりの気持ち悪さに、私は冷静を取り戻していた。それに、あんな男のことを考えている暇なんてない。


 私が落ち着いたことがヒューにも伝わったのだろう。「それで、欲しい情報は?」と、話を振った。


「まずは、私が攫われたことが誰にどう伝わってるかを教えて」

「ああ」


 ヒューは頷く。


「はじめにハリディ男爵が、あんたからの連絡が途絶えたと気付いた。王都に問い合わせたが、事故にあったのではないかとあしらわれてしまった。ハリディ家の力で捜索を開始したが、爵位を取り戻したばかりのハリディ家に大した捜査力はない」

「……そうね」

「だが、オフィリア様にはオフィリア様を思ってくれる友人たちがいるだろう。バリー夫妻や侍女だったご令嬢たちの家門だ。……当然、あんたの元夫だって」


 ヒューはまるで言い訳をするみたいに私の様子を伺った。


「できる限りのことはした。できる限りというのはつまり、独立したばかりの状況で、他国の一令嬢に対してできる限りではあるが、それでも」

「いいわ、分かっていたことだから」

「……夫は悔やんでいた。だから結婚を、せめて婚約をしておけばと」

「いいってば。本当に気にしてないの。むしろ、安心したわ」


 エドワードが公国よりも私を優先するようでは、私が離れた意味がなかった。どうして今そんな女に時間を掛けなければならないのかと公国民に非難されるよりもずっとマシだ。


「王妃様は? 私を攫ったことは咎められなかったの?」


 ヒューは苦々しい顔をした。


「ランドルフを疑う声もあったが、契約があっただろう。契約は非公開だが、あんたの元夫は内容を知っている。その上で証拠がないのに強く出ることもできない。おまけにあの王妃様は処刑され、王妃様に従っていた男たちも自害した。事情を知る者は残っていない」

「そう……」


 あの美しい女の顔が断頭台から溢れ落ち、観衆に晒されるのを想像する。私はもう、彼女を憐れには思わないけれど。


「オフィリア様が監禁されていた屋敷はランドルフの土地だ。疑わしいだけで捜査を入れることはできず、だから助けも来なかった」

「ありがとう、状況は分かったわ」


 私は少し、考える。


「……叔父様は今、どこにいる?」

「王都だ。授爵のために一度出てきて、そのままあんたの捜索のために留まっていた」

「そう、よかった。叔父様のところへ案内して」

「……夫のところじゃなくていいのか」


 ヒューはお月様の目をまん丸に広げた。


「本当に心配していたんだ。ただ、この件は公国の独立が都合悪く働いた。夫はもう、他国の令嬢の失踪事件に簡単に口を出せる立場にない」

「別に、助けてくれなかったことを怒ってるからじゃないわ」

「だったら、会いに行ってやれよ」


 いつの間にか『夫』呼びになっていることを指摘できないほどには、ヒューの語気は鋭かった。ヒューが気にするほどにエドワードは私を心配していたのだろうか。


 それでも、私は頷くことができなかった。


 監禁されていた間のことを思い出す。私が人間として扱われていなかった間のことだ。


「……本当は私、何度もエドワードに助けに来てほしいって思ったの。何度も、何度も、馬鹿みたいに。自分から離れる決心をしたのに、本当に、馬鹿みたいでしょう」

「……馬鹿なんかじゃない。普通のことだ」

「それでも、すごく惨めだった」


 私が誰の所有物でもなかったから、私のことを嫌いだとか、私に殺されたいだとか、勝手なことを言う人たちのくだらない欲望に巻き込まれてしまった。そのことに何度も怒りを覚えたけれど、結局、私もエドワードに助けてもらうことを望んでしまった。


 私だって、一人でも抜け出せる力があるはずなのに。


「エドワードに会いたい。……会いたくないわけ、ないでしょう。会いに行って、泣きついて、辛かったのって甘えたい。抱きしめてほしい。でも、そんなことをして一体、何になるの」


 エドワードはきっと、私を慰めてくれる。助けられなくてごめんと謝りさえするかもしれない。私を守るために結婚か、せめて婚約を結ぼうと言うだろうし、もしかしたら、エストラシア行きも反対されるかもしれない。私はきっと、なし崩しで公妃になる。


「強くなりたいの。誰かに守られるままでいたくない」

「……オフィリア様は、十分強いよ」


 ヒューの声にはまだ不満が滲んでいた。


「強いから、今こうしてここにいるんだろう」

「ええ、男を騙してこうやって一人でも逃げてこられた。私は一人でもずっと、強かったはずなの」

「……今、オフィリア様は逃げ出せたことで興奮状態になってるんだ。今回はたまたまうまくいったが、いつもうまくいくとは限らない。わざわざ危険に身を置くことを、賢いことだとは思わない」

「そうね。馬鹿で、愚かなオフィリア・ハリディ」

「オフィリア様は賢いって、何度も言っただろう」

「賢くないとか賢いとか、好き放題言うわね」

「言葉遊びをしたいわけじゃない」


 ヒューが私のことを心配してくれているのだと伝わってきた。優しいヒュー。私は何度もヒューの優しさに助けられてきた。


 それでもヒューは、情報屋だ。


「情報屋さん。私の依頼を受けてはくれないの?」


 意地悪く言うと、ヒューは苛立ったように眉を寄せ、そうして結局、「降参だ」と両手を上げた。


「連絡はしてやれよ。元夫は、本当に心配していたんだ。倒れるかと思うほど」

「もちろん、私を探してくれた人たち皆にお礼は言うわ。当たり前じゃない」

「泣くぞ、あの男」

「私だってあの人に何度も泣かされたのよ。お互い様ね」


 むしろ、それでやっと釣り合いが取れるかもしれない。私だって戦争に行ったエドワードを心配していたのに、三年の間酷い扱いを受けたのだ。私が三年間心配を掛けるくらい許されてもいいでしょう。


 そう笑うと、ヒューは腰に手を当てて、ふうっと深く息を吐いた。


「分かった。ハリディ男爵の元に案内するよ。あまり速く走るなよ。さすがに馬には追いつけない」

「意外。馬よりも早く飛べるかと思っていたから」

「そんなわけがないだろう」


 ヒューが歩き出す。私は手綱を引いて、馬を進ませる。静かな森に蹄の音が響いて気持ちが良かった。


「……あ、報酬」


 私がつぶやくと、ヒューは振り向く。


「私今、何も持っていないわ。どうしたらいい?」

「あー……そうだよな」


 ヒューは少し悩んだ後、ニッと笑った。


「後払いでいい」

「後払い?」

「ああ。三年後、きちんと払ってもらう。当然、利子付きだ」


 三年後も、私の情報屋でいてくれるということだろうか。だったらそう言えばいいのに。相変わらず皮肉屋だ。


「ありがとう、ヒュー」

「ああ、忘れるなよ」

「忘れてたら取り立てに来てくれるの?」

「……ほんと、図太くなったよな」

「長所が増えてよかったわ」

「よく言うよ」


 馬は進む。整備されていない地面は歩きにくいようで、荒い歩みが私を揺すった。弱った体に堪えたけれど、耐えられない程ではない。むしろ、私を鼓するにはちょうどいい。


 強くなりたい。守られずとも一人でも立っていられるように。今度こそ大勢の人の命を、生活を、未来を守れるように。——強くなりたい。


 道は続いていく。私の進むべき場所へ向かって。

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