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114. 高貴な女

 考えろ、考えろ、考えろ。


 自分に言い聞かせる。考えろ、どうすればこの屋敷から逃げられる。どうすれば、私一人で乗り切れる。どうすれば。


 ——高貴な女の涙は、男の嗜虐心を煽る。


 ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。いつかヒューが言っていたことだ。私がまだ平民として生きられる場所を探していた頃、危険な目に遭ってしまった時にどう対処すればいいか、彼は教えてくれていた。


 あの時、ヒューは何と言っていただろうか。必死で記憶を探っていく。気丈であり続ければ飽きてくれるのだったか。いや、違う。それは否定されたはずだ。確か。


 ——主犯格ではなく、そいつらの言うことを聞いている男。悪事に加担しているのに当事者意識が薄く、自分のことを純粋だと思っている。そういう男をターゲットに選べ。


 ——純粋な男は、苦しめている立場にも関わらず公妃様を助けたいと思うはずだ。


 そんな男、いるわけないじゃない。手枷のついた女が連行されていても、誰一人不思議に思う者はいなかった。人間を使った実験をする研究所だ。きっと、苦しむ女なんて見慣れている。


 弱気で潰れそうになる。それでも他に乗り切る方法が浮かばなかった。やるしかない。まずは、この屋敷に利用できそうな人がいるのかを確かめなければ。


 私はエイベルがいない間に何度もベッドパイプに鎖を打ちつけて大きな音を出した。そうすれば使用人が確認しにくるだろうと考えたのだ。案の定、部屋の前で見張りをしていた男が中に入ってきた。


 何度も繰り返すことで、見張りが朝昼晩の三交代であることを知った。それぞれの時間帯に一人ずつだ。都合がいい。注意深く、男たちを観察する。


 見張りの男たちは私が暴れるでも喚くでも逃げ出そうとするでもないことを確認すると、一言も発さずにすぐに部屋を出ていった。だめだ、やっぱりここに利用できそうな人なんていなかったんだ。


「どうして毎日音を立てるのですか」


 ある日、一人の男がそう聞いてきた。朝の見張りを担当している男だ。男はまだ若く、この異様な屋敷から浮いているように見えた。


 私は高貴な女。言い聞かせて、静かに言う。


「どうしてかしら」


 男の瞳の奥に情欲が光るのを、私は見逃さなかった。この男だ。私が狙うのは、この男。


 それからは朝にだけ音を鳴らすようになった。男は毎日部屋に入ってきては、私に熱の籠った視線を向けた。


「昼と夜は静かにされているらしいじゃないですか。どうして私の時にだけ」


 男の望む通り、寂しそうに微笑んでみせる。

 いつしか男は音を立てなくても部屋に入ってくるようになる。


「寂しくて私を呼んだのでしょう。話し相手くらいにはなりますから」


「手を出してください。消毒をします」


「頬が腫れていますね。叩かれたのですか。……酷いことをなさる」


 そうして男は言った。


「……ここから出たいですか」


 心臓が大きく鳴る。間違えてはいけない。この男の使命感を最もくすぐる言葉を掛けなければ。


 考えろ、考えろ、考えろ——


 窓の外を見つめ、肩を震わせる。型にはまった言葉よりも、私の孤独を、諦めを、希望を、自分勝手に読み取ってくれるだろうと思った。


 後ろから、ごくりと唾を飲む音が聞こえた。


***


「オフィリア様、助けにきましたよ」


 男は鍵を取り出して、私についていた枷を外した。何日振りの自由だろう。手首にも、足首にも、枷に沿った痣ができている。


「走れますか」

「ええ、でも、どうしてここに?」


 白々しく聞けば、男は黙って微笑んだ。その瞳にはまるで自分が英雄かのような自惚が滲んでいる。


 私はベッドから降りる。久しぶりに立ち上がったからか、足元がふらついた。

 体勢を立て直そうとしていると、不意に足首を掴まれる。


「……逃がし、ませんよ」


 まだ生きていたのか。エイベルは両手で私を掴む。


「……ぜっ、……いに、逃がさない……、私を……す、のは、あなた、なのに……」

「行きますよ、早く!」


 男がエイベルの足で踏み潰した。蛙のような声を上げて、エイベルは血を吐く。足に血が跳ねて気持ちが悪かった。


 部屋を出て、廊下を走る。男はこの時間は皆表には出ていないのだと説明した。だからこそ、こうして私を連れ出せると踏んだらしい。


 流石に門番は常駐しているらしく、裏の抜け道を使って敷地から抜け出すそうだ。裏庭の目立たない場所に、二頭の馬と弓が用意されていた。


「弓は使えるとおっしゃいましたね」


 男は矢筒と弓を私に渡した。私はいつか男に、馬に乗れること、弓矢を使えることを言っておいたのだ。男がそれを覚えていてよかった。


「追っ手が来ましたらこれで追い払ってください。私は剣で応戦します。さあ、行きましょう」


 私たちはそれぞれ馬に乗った。私が先を走ります。男が言う。屋敷を出て、森を走る。


 十分に屋敷から離れたところで、男は速度を落とした。


「ここまで来れば追っ手は来ません。……急がせてしまいましたね」


 私は問題ないと答える。男は速度を落としたまま、走り続ける。


「私の故郷はここから三日ほど離れたところにあります。故郷には母と妹がいますが、きっと二人はオフィリア様を受け入れてくれるでしょう」


 そう、ありがとう。言いながら、私は矢筒に手を伸ばす。馬に乗りながら扱えるかは不安だったが、なんとかバランスを保っていられそうだ。そのまま矢を一本、抜き取った。


「オフィリア様を連れて帰ったら、母も妹もきっと驚きます。こんなに美しい人が私のお嫁さんになるなんて」


 私は手綱を引き、馬を止めた。


 深呼吸を一つ、右手を弦に掛ける。腕を上げ、引き分ける。心臓が痛い。いつものことだ。上下に揺れる男の背中に標準を合わせるように目を細める。私の意識は、男の背中に集中する。


「オフィリア様……?」


 蹄の音が聞こえなくなったことを不思議に思ったのか、男が馬を止めた。振り返ろうとするその背中に向けて、私は矢を放った。


 風を切る。矢は真っ直ぐと男の元に飛んでいく。とす、と軽い音とともに、男の背中に矢が刺さる。


 男は数秒固まった後、落馬した。馬の嗎が響き渡る。


「どうして、私を……? 私たちは、愛し合っていたのに……」


 地面に寝転がった男が理解できないという表情で私を見上げる。人間を使った実験をするような研究所にいたくせに、私が捕まるのを黙って見ていたくせに、私に醜い欲望をぶつけたかっただけのくせに、よくもそう思えることだ。悪事に加担しているのに当事者意識が薄く、自分のことを純粋だと思っている。この男は、本当にその通りの男だったのだろう。


「早く医者が来るよう、祈っているわ」


 私は手綱を引いて、男の横を走り過ぎた。男の叫びが聞こえてきたけれど、少しも速度を落とすことはなかった。


 風が頬を切っていく。その冷たさに、泣きそうになる。ああ、外だ。全身が心臓になったように高鳴った。指先からじわじわと血液が巡って、私の体を叩きつける。外だ。私は、外に出ることができた。自分の力で、あの屋敷から出ることができたんだ……!


 馬を止める。はやる息を整え、それから大きく深呼吸をして、叫んだ。


「情報屋! 誰かいないの!?」


 がさりと音がなる。音のなる方へ顔を向けると、猫のような男が木から逆さに顔を出した。


「やっぱりオフィリア様はお転婆だ」


 ヒューはお月様の瞳でそう笑った。

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