113. "助けて"
窓の外を眺めていた。高くなっていく太陽に、この屋敷に来てからどれくらいの時間が経ったのだろうと考える。初めの頃は数えていたけれど、次第に意味がないと思い数えるのをやめた。
飾り気のない庭には誰もいない。普通、使用人は朝早くから忙しなく働くものだけれど、この屋敷の使用人たちが動き始めるのは昼を過ぎてからだった。研究所という特殊な環境だからか、それとも私が見えないところで……例えば地下室で働いているのだろうか。そんなこと、私が知る必要はないのかもしれない。
扉が開く音がした。私は驚いて振り向く。エイベルが一人で訪ねてきたようだ。いつもは昼夜の二回、食事の時間にしか来ないはずなのに、どうしてこんな時間に? それに、いつもワゴンを運ばせている使用人もいない。食事のために来たわけではないのだろうか。
「起きていらしたんですね」
エイベルが微笑む。何かが、違う気がする。この男はいつも一人で勝手に興奮している。それなのに今日は、私にねっとりとした視線を送ってくる。私はベッドの上で一歩後退りをする。
「窓の外を見ていらしたのですね」
エイベルは一歩一歩、私に近づいてくる。その度に、嫌な予感が大きくなる。
「外に出たいのですか」
「あなたには関係がないわ」
「出してくださいとお願いすれば良いではないですか」
「……お願い? 私があなたに?」
エイベルは悩まし気に息を吐いた。ぞくりと、背筋に悪寒が走る。
「オフィリア様」
エイベルはベッドまで来ると、その端に腰を下ろした。いつもは床に膝をついて座るくせに、どうして今日はそんなところに。
「私は性行為に興味はないのです」
「……は?」
突然発せられた性行為という言葉に、体が硬直する。
私は頬に手を当てる。昨日、粥がついているとエイベルが舌で舐った場所だ。蛞蝓が這うようなぬるりとした感覚が蘇って、胃が収縮する。
「なん、で、そんな」
胸騒ぎを否定したくて、私はそう返す。嫌だ、嫌だ、近づかないで。エイベルは右膝をベッドに掛け、乗り上がる。
「だから私は、オフィリア様があの男に嫁ごうが、体を許し孕もうが、興味はなかったのですよ」
ああ、体は許していないのでしたか。笑いながら、そう付け足す。
「けれど昨晩、考えたのです。オフィリア様は痛みや苦しみよりも、そういった屈辱を与えた方がより不快に思われるのではないですか。それに、ああ、初めてが私なんて、それはそれは、気持ちが悪いでしょう」
エイベルは私の方に身を乗り出した。ぎしりとベッドが軋む。私はまた、後ずさる。エイベルがまた、私に近づく。
「……やめなさい」
「怯えていらっしゃいますね。私が恐ろしいですか? 気持ちが悪いですか? 憎いですか?」
カシャンと音が響く。足枷につけられた鎖が伸び切ってしまっていた。——逃げられない。
「や、やめ……」
「ふふ、もっと怯えてください。怯えて、憎んでください。ほら」
エイベルの右手が私の頬に触れた。蛞蝓。吐き気。気持ちが悪い。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「いや……! 助けて……!」
――たっぷり五秒、エイベルは動きを止めた。眉の間に皺が寄り、額から汗が噴き出る。
私から手を引いたエイベルは、今度は自分の胸に触れた。震えながら目の前に掲げた手のひらは、べったりと鮮血で塗れていた。
「……?」
首を傾げた瞬間、咳と共に喀血が飛び散る。私は反射で目を瞑った。ぼた、ぼた。血がベッドに飛ぶ音がする。
目を開ける。私の視界からは、エイベルは消えていた。代わりに一人の男が映り込む。男は笑う。
「……はは、オフィリア様、助けに来ましたよ」
男は――名も知らないその男は、血塗れの剣を握っていた。




