11. 異国の王子
「再会を喜んではくれないみたいだね、"アデル"?」
カーティス王子はわざとらしくその名を呼んだ。
酒場で会った商人のクリスと、目の前の洗練された上品な男が同じ人物だとはどうも信じがたい。だけど、彼から香る香水の匂いは間違いなくクリスと同じで、私は否定ができなくなる。
「……私の侍女をご存知なのですか?」
「侍女の名前、ね。まさか偽名を使われていたとは」
あなたもそうじゃない。そう言いかけて、ぐっと堪える。
あの夜、私はクリスのことをもう一生会わない人だと思っていた。隣国の王子だと知っていれば、あんな話は絶対にしなかった。今さら悔いても意味がないのだけれど、私はせめて、あの日出会ったのは私ではないと演じなければならない。
黙る私をカーティス王子は笑って、それから会場を見渡すようにくるりと体を回した。
「あれが君の旦那と愛人か。確かに君とは正反対のタイプだ」
「なんのことでしょう」
「つれないね」
カーティス王子はつまらなそうに口を尖らせた。
「君とは親しくなれたと思っていたんだけど、俺の勘違い?」
「カーティス王子殿下とお会いしたのは本日が初めてと存じております」
「それにしても君の夫、本当に君に興味がないの?」
私の否定を気にもせず話し続けるカーティス王子に、半ば諦め気味にため息をついた。
「なんの話をしていらっしゃるのか」
「ほら、見てみなよ」
カーティス王子は私と場所を入れ替えるようにターンをした。彼の肩越しに流れる光景を追っていく。そうしてある男の姿が見えた瞬間、背筋に悪寒が走った。
エドワード・グレイが、肉食獣のような瞳を光らせて、私たちを睨みつけていた。本能的な恐怖が私を支配し、筋肉を硬直させる。
「嫉妬してるんじゃないの」
「……まさか」
私はエドワードの視線から逃れたくて、無理やりに体を回した。
確かにエドワードは、私たちに不快感を表していた。彼が視界から消えた今でも、背中に刃が突きつけられているような殺気を感じるほとだ。
だけど、彼の感情は果たして嫉妬なのだろうか。そもそも愛人をファーストダンスに誘っておいて、一人残された正妻が他の男と踊ることに嫉妬するなんて、馬鹿げている。
大方、彼が王国を軽んじるために行った行為の効果が薄まってしまったことに腹を立てている、といったところだろう。カーティス王子の容姿のせいか、私へ向けられていた嘲笑は、いつの間にか私たちのダンスに対する陶酔に似た称賛へ変わっていっていた。皆、うっとりとした目で私たちを見ている。
「この前の話、真面目に考えてみない?」
「何のことでしょうか」
カーティス王子は人々の眼差しなんて慣れているのか、気にもしていないようだ。わざとらしく私の耳に顔を近付けて、声を顰める。
「夫と別れて、俺の国へ逃げておいでよ」
あの夜のクリスと同じ誘い。だけど、ここは平民の遊ぶ酒場ではない。
「……公爵夫人である私に、隣国の王子殿下からの婚姻の申し出を受けろと仰るのですか?」
「君の言うとおり、お互いの立場を知った上ですべき提案ではないかもしれないな。だけど、君が彼から逃げ出したいというのは本心なはずだ」
カーティス王子は、私の心の隙間に染み混むような甘い声で囁いた。
「君のお義姉様は、俺の国との繋がりじゃ満足できない?」
「……それ、は」
私に考える隙を与えないかのように、音楽が鳴り止んだ。私たちは体を離して、互いに礼をする。
「夢のような時間でした、公爵夫人」
カーティス王子が私の手の甲にキスを落とした。物語の王子様のようなその姿に、会場から小さな悲鳴が聞こえる。
上目遣いに私を見上げ、私に逃げてこいと言う男。美しい隣国の王子様。この男は、本当に私をここから逃がしてくれるのだろうか。……王妃様に殺されない方法で?
「殿下」
――威圧的な低い声が、私を現実に引き戻した。振り向かなくても分かる、私に苛立っているのだ。
カーティス王子はにやりと口の端を上げて、目の前のエドワードに丁寧に礼をした。
「ご挨拶を申し上げるのは初めてですね、公爵閣下」
「ええ、私も爵位を継いで初めて異国の社交場に顔を出したものですから」
二人が挨拶を交わしあう姿に、私は言いようのない気味の悪さを感じた。
私がカーティス王子の隣にいるのも不自然で、エドワードの斜め後ろに移動する。彼の視界から外れられほっと息をついたのもつかの間、エドワードは横目で私をぎろりと睨みつけた。それだけで、私の身体は小動物のように動けなくなる。
きっと一瞬だった。エドワードはすぐに、カーティス王子の方へ視線を戻した。
「私よりも先に妻がご挨拶を申し上げたようで、大変失礼いたしました」
……ああ、それを言いにきたの。わざわざ私がいるところにくるなんておかしいと思ったのだ。
公国の元首であるエドワードよりも私が先に挨拶を交わすことは礼儀の通らないことではあるけれど、……でも、仕方がないじゃない。
私の言い訳を代弁するように、カーティス王子は朗らかに笑った。
「私から夫人をダンスにお誘いしたのですよ。お美しい夫人がお一人でいらしたものですから、つい」
「ご配慮いただき感謝申し上げます」
エドワードはまるで本当に感謝でもしているかのように綺麗な礼をした。そうしてすぐに頭を上げると、嘘くさい笑顔を見せる。
「よろしければ是非、感謝の意を込めて、あらためて殿下を我が国へお招き申し上げたく存じます」
カーティス王子を、シェルヴァ公国へ招くの?
私の頭の中に仲良くシェルヴァ公国を回遊する二人の姿が浮かんだ。なんだかすごく不似合いだ。
いっそのこと花で飾り付けた馬車で回ってみてはいかがだろうか。二人の恐ろしさを薄めることはできるかもしれない。私は道端から花びらを撒いて、二人を盛り上げようかしら。
あまりの居心地の悪さに妄想の世界に逃げていた私は、ふと視線を感じて意識を現実に戻る。目が合ったのは、私を見つめるエメラルド。
「公爵夫人が案内してくださるのでしょうか」
なんで、私が。もちろんそんなことは口に出せず、なんでもないように微笑みを浮かべる。
「……ええ、殿下がお望みであらば」
「それはそれは、伺える日が楽しみです」
どうしてそんな無礼な態度を? 公爵直々の誘いを、妻である私に案内をさせることを条件にするなんて、エドワードを軽視していると思われても仕方のない行為なのに。
左半身にゾッと鳥肌が立った。導かれるように左を向く。
エドワードは変わらぬ笑顔のまま、カーティス王子に礼をした。
「……後日、招待状をお送りいたします。それでは、失礼いたします」
エドワードは右腕をそっと曲げる。私は反射的に彼の腕に手を添えた。
カーティス王子に礼をして、歩き出すエドワードについていく。
エドワードは人を掻き分け、掻き分け、そのまま会場を出て、廊下を進む。どこに行くのか、何がしたいのか、聞けるような雰囲気でもなく、私は転ばないよう、ただ、足を交互に動かし続けた。
いつの間にか中庭まで来ていた。いい加減黙ってついていくにも限界がある。私は彼の腕を両手で掴み、引き止めた。
「ちょ……っと! どこに行くつもりよ!」
「王国法では夫人が不貞を働いた場合、姦淫罪に該当する」
「はぁ?」
突拍子もない言葉に彼の腕を掴む力を緩めると、エドワードはようやく私を振り向いた。中庭は薄暗く、僅かな光が彼の陰影を縁取り、一層恐ろしく見せた。深く沈んだ眼窩に、私を責める色が光る。
「君が愛して止まないブリジア王国の法律だ。知らないわけじゃないだろう」
……ああ、そう。頭の中が冷えていくのと反対に、血管がドクドクと音を立てる。
つまり、愛人をファーストダンスに誘っている間に私が男性と踊ったから、姦淫罪に該当して離婚が成立する、と?
「パーティで踊っただけで不貞ですか」
やっと出た声は震えていた。言いたい文句の半分も言えず、余計に悔しさが増していく。だけど、頭が熱くなって、胸が苦しくて、言葉を続けることができなかった。
黙る私に、エドワードは自分がまるで被害者かのように大きなため息をついた。
「君は男を誘惑するようにでも言われているのか」
なんで、そんなことを言われないといけないんだ。よりにもよって、この男に。
声を出すと、悔しさで涙が出そうだった。この男に泣いているだなんて思われたくなくて、深呼吸をして気持ちを整える。
十分に落ち着いて、それでも喉をひくりと痙攣させながら反論を口にした。
「……あの曲は、先日、誤解だとお伝えしましたよね」
「だったらいまだに君に届くプレゼントはなんなんだ……!」
私を押さえつけるような怒声。
プレゼントなんて、私の価値が落ちたと喜んだ気持ちの悪い男たちが勝手に送ってきてるだけなのに。
「……知りませんよ、そんなの」
ああ、だめだ、涙が出てしまう。
飲み込んで、飲み込んで、それでも耐えられそうになくて、私は後ろを向いた。
「そのスーツ、お似合いですね」
投げ捨てるように言って、走り出す。
ドレスにヒールでまともに走れるわけなんてないのに。それなのに、エドワードは私を追ってくることもなかった。
庭の奥、一人になると、我慢していた涙はいつの間にか引っ込んでいた。こんなことならもっと言い返してやればよかった。私は中庭のベンチに一人腰掛ける。
悔しくて、悲しくて、情けなく思っているけれど、それが何に対するものなのか、自分でももう分からない。押し込んだ感情は、掬おうにもどこかへ隠れてしまったようだ。
「……くだらないわ、ほんと」
夜空に嘲笑を放り投げて、私は自分を慰めるように目を閉じた。
***
舞踏会に参加しているのに、中庭でずっとめそめそしてなんていられない。私は程なくしてパーティ会場に戻った。
開始から時間も経って十分に盛り上がりを見せているパーティでは、有難いことに私の帰還に興味を持つ人はいない。エドワードも、カーティス王子も、国王陛下も王妃様も、皆それぞれが話すべき人と話し、するべき振る舞いをしていた。
私にも公爵夫人として、ランドルフ侯爵家の養子として、するべき振る舞いがあった。
繋がりのある家系の人々と、話し、笑い、探り合う。エドワードとの関係やカーティス王子とのことを聞かれても、のらりくらりとやり過ごす。
何度同じ話をすれば気が済むのかと飽き飽きした頃、ちょうど人の輪から離れた私に声をかける人がいた。
「公妃様、宜しいでしょうか」
相変わらず、好奇心旺盛な表情で私を見つめる彼女に内心嫌になりながらも、その女性に笑顔を返した。
「いかが致しましたか――ブレアム男爵閣下」




