108. 門出
雲ひとつない晴天だった。私の新しい門出を祝うにはやりすぎなくらい気持ちがいい天気だ。神様がこの屋敷で過ごす最後の瞬間くらいはと、いい思いをさせてくれたのかもしれない。私は今日、グレイ公爵家のタウンハウスを出ていく。
ノックの音がした。返事をすると、エドワードが姿を現した。エドワードは私よりも感傷的な表情をしていたから、つい、笑ってしまう。
「ふふ、ひどい顔」
「……当然だろう」
文句を言いながら、手を差し出す。彼のエスコートでエントランスまで向かった。
エントランスを出ると、「奥様!」と声が聞こえた。前方から可愛い五人の令嬢たちがやってくる。先日まで私の侍女だった子たちだ。彼女たちは私が公爵夫人でなくなったのと同時に契約終了となった。もちろん、望んだ子にはエドワードの伝手を使って良い勤め先を紹介した。結婚の面倒を見てあげられなかったことは心残りだったけれど、もし良い縁談があればいつでも紹介するようにエドワードにお願いしてある。
「奥様。私たち、お見送りに参りました」
「もう奥様じゃないわ。ただの男爵令嬢よ」
「では、オフィリア様と呼ばせていただいてもよろしいですか」
そう聞くエセルに「もちろんよ」と頷く。エセルは口に馴染ませるように「オフィリア様」と言って、礼をした。
「短い間でしたが、多くのことを学ばせていただきました。私はオフィリア様に仕えていたことを、生涯忘れません」
彼女に倣って、残りの四人も礼をする。
「私もです、オフィリア様」
「オフィリア様に教わったこと、忘れません」
「みんな、大げさよ」
「大げさじゃないです!」
そう言ったのはヒラリーだ。今にも泣き出しそうな顔をしている。
「オフィリア様にお仕えできて、私……」
本当に泣き出すから、私もつられそうになる。彼女たちの存在に救われたことが、何度もあった。
「私の方こそありがとう。あなたたちと出会えてよかったわ」
「そんな、一生のお別れみたいな言い方しないでくださいよぉ!」
「こちらへ戻られたら絶対にご連絡くださいね。絶対ですよ」
彼女たちと言葉を交わしていると、後ろから両肩を掴まれた。
「オフィリア様っ!」
肩越しに振り向くと、シャーロットがこてんと首を傾げた。
「私もお見送りにきました!」
「あら、ありがとう」
彼女の方に向き直る。肩に置かれていた手はいつの間にか私の両手の平を掴んでいて、子どもの遊びのようにぶんぶんと振るう。
「寂しくなりますね。私、オフィリア様と一緒にシェルヴァ公国に戻れると思っていたのに」
「それはそれは、期待に添えずごめんなさいね」
「ほーんと、公爵様に愛想を尽かすのも仕方ないですけどぉ」
軽口で探ろうとするのは彼女の癖なのだろうか。私が「その手には乗りません」とそっぽを向くと、「だめだったか!」と悔しがった。
「大人しく納得することにします。その代わり、エストラシアでしっかり化粧水の宣伝をしてきてくださいね! 宿泊先にたくさん商品を送りますから!」
「もちろんよ。任せて」
シャーロットは私の手を離し、こそっと耳打ちした。
「公爵様のことはちゃんと見張っておきますから。安心してくださいね」
にやりと口の端を上げる彼女は、一体どこまで知っているのだろう。私は意地悪を返したくなって、彼女を流し見る。
「……どうかしら。あの人、結婚していた間ですら愛人をつくるような人ですから」
「え、うわ、確かに! ああでも、もし公爵様に近づく女がいたら私が愛人一号として意地悪すればいいのか!」
「ふふ、なによそれ」
私たちは二人で顔を見合わせて笑った。
「オフィリア」
低い声に呼ばれ、私は振り向く。少し離れたところで待っていてくれたエドワードが私を呼びに来たようだ。
私は皆に手を振って、エドワードの隣に急いだ。
エドワードの肘に手を掛ける。布越しに緊張が伝わってきて、それが伝染して、私も口を噤んだ。
馬車の前、彼の腕から手を解く。向かい合って、エドワードを見上げる。眉に寄せられた皺、寂しそうに揺れる灰色の瞳、固く結ばれた薄い唇。
好きだと、言ってしまいそうになる。お願い、私を待っていて。
けれど私は、そんなことを言える立場にない。
私たちはこの三年間、私的な連絡は取り合わないと決めた。もしエドワードに公国のためになる縁談が来た時に足かせになりたくなかったからだ。エドワードは渋ったけれど、結局最後は私の言う事を聞いてくれた。
あんなこと、言うんじゃなかった。私は未だ、愚かな女だ。覚悟を決めたふりをして、今だって後悔している。
「そろそろ、行かないと」
後悔を断ち切るために、私は言った。これ以上エドワードといると出発できなくなりそうで、顔を背ける。
左肩に大きな手が触れた。心臓が跳ねる。恐るおそる視線を遣ると、灰色の瞳が私を捉えた。
頬に、右手が触れる。私は擦り寄るように体を預けて目を閉じる。唇にエドワードの唇が触れた。ただ触れるだけ。私の好きな、猫のじゃれあいのようなキス。触れたところからエドワードの感情が流れ込んできて、私の胸をいっぱいにした。
「無事でいてくれ」
エドワードの指が私の涙を拭いた。最後に見せる顔がぐしゃぐしゃの泣き顔でいたくなくて、私は無理やり笑った。エドワードも笑って、私の背中を押した。
馬車に乗る。窓の外にいるエドワードを見下ろす。私が手を振ると、エドワードは泣きそうに微笑んだ。馬車が揺れ、進み出す。外の景色が流れて、エドワードの姿は簡単に見えなくなった。
ああ、もう戻れないんだ。やっと実感が湧いてくる。いいことばかりではなかった。辛いことの方が多かったかもしれない。それでも私は、この場所が好きだった。エドワードの隣にいることが、大好きだった。
馬車は無常に進んでいく。王都を抜け、人もまばらになり、ついには草地になっていった。
私はようやく未練が断ち切れて、ふう、と息をついた。座席に座り直す。王都を出たら終わりではない。私はまだやらなければならないことばかりだ。エストラシア語の学び直しだけでなく、エストラシアの王女様にブリジア語をどのように教えていくかを考えなければならない。
エストラシア語の本を開いたその時、馬の足音の間隔が広くなっていくのに気付いた。先程まで草地だったのだ、補給地についたわけでもあるまい。何かあったのだろうか。考えているうちに馬車は止まった。
馬車が故障した? 知らせがくるのを待っていると、暫くして馬車の扉が空いた。見覚えのない男が顔を覗かせる。御者ではない。
全身の筋肉が硬直する。心臓の音がいやに響く。物取りだろうか。こんな場所で? 頭が働かない。息が浅くなる。
男は何も言わずに顔を引っ込めた。おかしい。この男の行動は、物取りではない。では、何が目的だ。
目玉だけで扉を見ていると、ふと、柔らかい花の香りが漂った。この場にそぐわぬ華やかな香りを、私は知っている。
女が一人、馬車に乗り込んでくる。私は上ずる声で、彼女を呼んだ。
「ヴェネッサ王妃、様……」
ヴェネッサ王妃は初めから決められていたことのように私の前に腰を下ろした。




