107. 私の情報屋
『狂気! 若い女の血を浴び美しさを保つ"血の王妃"事件の全貌』
そう題された記事では、事実とはかけ離れた、なんとも馬鹿らしい作り話が綴られていた。
前編で語られたH家夫妻、つまりハリディ男爵夫妻の殺害はヴェネッサ王妃が計画したものだった。ヴェネッサ王妃は若い女の血を浴びることで若さを保てると信じており、美しいオフィリア・ハリディに目をつける。オフィリア・ハリディを養子入りさせ自分の元に置くためにハリディ男爵夫妻を暗殺したのだという。
記事にはオフィリア・ハリディ以外にも平民の女が連れ去られていたとか、美しい女を使用人にして痛めつけていたとか、実際に王妃様のしていないことが記述されていた。それも、信頼する侍女の証言としてだ。
「安い小説みたいだな」
ヒューは苦笑いで言った。
彼とこの寝室のバルコニーで話すのも久しぶりだ。私の見張りが解かれたことで、ここに来ることができるようになったらしい。
私もヒューに会いたかったのだけれど、記事の影響でパーティにも出られなかったので、思いがけずヒューが訪ねてきてくれて一安心だ。
「一国の王妃に罪を被せるのは賢いとは思わないけれど」
私が呟けば、ヒューは手元の記事を器用に折りながら言った。
「いや、案外いい選択かもしれない」
「そうかしら」
「ああ。あの王妃は『王国全体を揺るがしかねない』という条件を満たせるほどの地位にありながらも、結婚後に離宮で起こったことだから国王もランドルフ侯爵家も関与していないと言い訳ができる」
「醜悪ね」
もちろん、これが何かを隠すための記事だということを少なくとも貴族たちは気づいているだろう。記事の公表と同時期に、混迷を極めていたシェルヴァ公国の独立が認められたのだ。余程社会情勢に鈍い者でなければ、何が隠されていたのかは察することができる。
そんな片付け方でいいのかと私は思うけれど、事実よりもどう表明されるかが大事なんだそうだ。やっぱり私には、政治というものは分からない。
「自分を痛めつけていた王妃様が処刑されるなんて、せいせいするんじゃないか?」
ヒューの言葉に、私は言葉を詰まらせる。
この事件の責任を追及されたヴェネッサ王妃は廃妃が言い渡され、処刑が確定した。一週間後、王都の処刑場で断首が実行される。せいせいする……なんて、思える程、私は冷酷にもなれなかった。
「また同情してる。まったく、お優しいことだ」
「……そうじゃないわ」
ただ、どうしても王妃様の人生はなんだったのだろうと、考えてしまうのだ。
王妃様だってランドルフ侯爵家に生まれることを望んだわけではない。それでもランドルフの女として育てられ、言われた通りに嫁ぎ、言われた通りに振る舞って、全てを背負って殺される。そんなの、あんまりじゃないか。
「他人のことを気にしている余裕はあるのか?」
ヒューの揶揄いに、私は憂鬱を振り払った。
「全く。エストラシア語、結構忘れてたみたい。必死で学び直しているところよ」
「まだ時間はあるんだろう?」
「ええ。明日ここを発って、叔父様のところでひと月程過ごしてからエストラシアに出発する予定。長い旅路になるから準備の時間もかかるの」
「へえ」
手元で折っていたものが完成したらしい。記事だったものは、いつのまにか鳥のような形になっていた。ヒューはそれをバルコニーの向こうに投げる。紙の鳥は夜風に乗って飛んでいく。
「ねえ、ヒュー」
ヒューが振り返る。初めて会った時、夜が溶けたような男だと思ったのを思い出した。彼がいてくれたから孤独に埋もれなかった夜が、いくつもあった。
「約束の報酬よ」
私はトランクケースを差し出した。たくさんあった宝石はいつの間にか減り、この報酬分を渡せば全てなくなる。
「全部、あなたのお陰よ。本当に感謝しているわ」
「俺は仕事をしただけさ」
ヒューは私からトランクケースを受け取った。手元にあった重みがなくなっていく。それが、すごく。
「……寂しい」
思わず呟いた。
「寂しいわ、ヒュー」
声にすると、止まらなくなる。寂しい。ヒューが私の情報屋でなくなってしまう。
「おいおい、泣くなよ」
ヒューは慌てたようにそう言って、ローブの端で私の涙を拭った。相変わらずなんの匂いもしないそのローブに、私の胸は締め付けられる。
「俺も寂しいよ。公妃様はお得意様だから」
「もう公妃様じゃないわ」
「なんだ。泣いてるくせに細かいな」
ちょうど昨日、ランドルフ侯爵家との養子縁組の無効届けにサインをしたばかりだ。それと同時に、エドワードとの結婚も無効になった。私は今、オフィリア・ハリディで、公妃ではない。
「はいはい、オフィリア様」
呆れたように言って、私の涙を拭いていた腕を戻した。私はまた、寂しくなる。ヒューにも伝わってしまったのかもしれない。ヒューは宥めるみたいに優しく笑った。
「大丈夫だよ。情報屋は顧客を大切にするんだ」
「どういうこと?」
「こんな仕事だ。無闇に顧客を増やすこともできないだろう。だから、一度お客様になった人は大切にする。流石にエストラシアまでついてはいけないが、この国にいる限りはいつでも呼んでくれ。俺でないかもしれないが、誰かがオフィリア様の元に駆けつけるよ」
「あなたがいい」
我儘だって分かっていた。けれど、今言わないともう二度とヒューと会えなくなる気がした。
「あなたがいいわ、ヒュー」
「俺だってそうさ。こんなに情報を渡すのが遅くても怒らない客は他にいない」
「だったらあなたが来てよ」
「……そうなるといいんだけど」
ヒューが困ったように笑うから、私は傷ついた。そうしてすぐに、傷つくことさえ見当違いなのだと気付く。私と彼は、ただの依頼主と情報屋だ。初めから今まで、ずっとそうだった。これ以上、彼を困らせてはいけない。
「冗談よ。本気にしないで」
私はどこかへやったはずの『公妃様』を引っ張り出す。美しく、賢く、わがままなんて言わない高貴な女だ。高貴な女のまま、微笑む。
「ありがとう、ヒュー。あなたとの契約は、今日でおしまい」
私を抱えて夜空を飛んでくれることも、熱に魘される私を慰め話を聞いてくれることも、背中を押してくれることもない。私たちは本当に、これでおしまいだ。
「ああ。またのご依頼を、お待ちしております」
ヒューは深く頭を下げた。しっかり三秒、それからゆっくりと頭を上げる。
お月様の瞳が、優しく細められた。
「またな、オフィリア様」
夜風に乗って、ヒューは私の前から消えていった。ヒューは気配も、匂いも、何も残さなかったから、ヒューといた日々なんて全部夢だったように感じる。そう思いたくなくて、私は夜空に浮かぶ月を見上げた。たった一つしかない、寂しい月だ。
――さようなら、私の情報屋。
月が少しだけ、笑った気がした。




