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106. 正しい道を

 沈み込んでいた意識がふわりと浮き上がる感覚がした。次に、ゆりかごのような揺れを感じて、私はまた眠りに落ちそうになる。ああ、だめ、起きなければ。重い瞼を開けると、灰色の瞳がすぐそばにあった。


「起こしたか」

「……ん、ベッドに運ぼうとしてくれたの?」

「ああ」


 エドワードは抱き上げていた私をゆっくりと下ろした。


 左手でエドワードを掴んだまま、まだ起ききらない頭で思い出す。確か私は、エドワードの寝室のソファで彼を待っていたはずだ。いつの間にか眠ってしまったのか。


 時計に目を遣る。日はとっくに変わっていた。


「遅い時間までお疲れ様」

「ああ」


 エドワードは頷くと、両手を広げた。何のポーズだ、と暫し彼を見つめていると、エドワードは甘えるように首を傾げた。


 ああ、そうか。私は彼の腕の中に飛び込む。背伸びをし、首の後ろに手を回して頭を撫でてやると、私を抱きしめるエドワードの腕に一層力が入った。


 エドワードからは石鹸の香りがした。息を吸うと彼の太陽のような匂いが混じって、私の胸は幸福で満たされる。


「起こしたら悪いと寝室を分けていたが、仕事終わりに君がいてくれるのは……やはり、いいな」


 エドワードが私のつむじに鼻を擦った。くすぐったくて、肩を揺らす。


 愛しい、と思う。私はずっと、ここにいたい。ずっとだ。


 それでも私は、彼を抱きしめるためにここにきたわけではなかった。


「話がしたくて待っていたの」


 彼の腕の中、私の声は籠って響いた。


 エドワードの肩がぴくりと揺れる。ぎゅっと、名残惜しそうに強く抱きしめた後、エドワードは私から離れた。私を包む暖かい空気が溶けてなくなっていく。


「……ソファに行こうか」


 私は頷く。

 私がソファに座ると、エドワードは隣に腰を下ろした。彼の重みでソファが沈み、体が傾く。彼に寄りすぎないようソファに手をついて、少し離れた。


「交渉はうまくいきそう?」


 何の、なんて言わなくても、私もエドワードも分かっている。


「ああ。相当渋られたが、陛下も今回のことが白日の元に晒されることについては重く受け取ったようだ。独立承認は決定して、今は報道の仕方について話を進めている」

「そう……よかった」


 私はもう一度、よかったと呟く。シェルヴァ公国の独立。これ以上ない結果だ。胸の奥がぴりぴりと痺れた。本当に、よかった。


 エドワードに抱きついて祝いたい。おめでとう、本当によかったと、叫びたい。

 けれど私はぐっと堪えて、口を開く。


「……個人的なことを聞いてもいい?」

「ああ」

「私の処遇は、どうなるの」


 空気が張り詰めるように感じた。エドワードの緊張が伝わってくる。それを隠すためか、エドワードは大きく息をはいた。


「……ランドルフ侯爵家が不当なやり方で君を養子にし、ハリディ男爵領を手に入れたことは公表する予定だ。ハリディ男爵領は返還され、君の叔父上が男爵位を叙爵されることになる。……君の養子縁組は無効となる」

「解消ではなく、無効?」

「そうだ」


 それってつまり。私が言う前に、エドワードが続ける。


「結婚は家同士の契約だ。ランドルフ侯爵家との養子縁組が無効になるのと同時に、俺達の婚姻関係も無効になる」

「……そう」


 そうなるだろうと思っていた。私とエドワードの間には子どもがいない。それどころか、夫婦関係と呼べるようなことさえしていなかった。


 私たちは初めから、夫婦ではなかったことになるのだ。


「俺は」


 エドワードの声が大きくなる。灰色の瞳が、切羽詰まったように私を見つめた。


「俺は、君が好きだ。君とずっと一緒にいたい。君がオフィリア・ハリディに戻っても、もう一度君と夫婦になりたい」


 そんなの、私だって。


 エドワードが好きだ。何を言われようとも、どんな扱いを受けようとも、エドワードのことを嫌いになれなかった。彼が苦しい時に側にいてあげたかったし、これからもそうしてあげたい。きっと、私の方がずっと、エドワードのことが好きだ。


 けれど、それだけではだめだということを、私は知っていた。


「ごめんなさい、エドワード」


 声が震えた。こんなことを言いたくない。それでも私は、言わなければならない。


「私はあなたの気持ちに、応えることはできない」


 エドワードの唇が震えて、そこから頼りのない声が漏れた。


「……悪かった。君のことをないがしろにして、俺は……」

「違うの、そうじゃないの」

「だったら何故……!」


 腕を引かれ、抱き寄せられる。エドワードの胸は深く上下して、鼓動がいやに速かった。


「好きだ、オフィリア。俺は君がいないと駄目なんだ。もう二度と、君を手放したくない。お願いだ」

「エドワード、聞いて」

「嫌だ、言わないでくれ。君に許されるよう努力するから、だから……!」

「話を聞いてよ……!」


 叫びながら、エドワードの胸を強く叩いた。エドワードははっと息を呑むと、小さく「ごめん」と言って黙った。急に訪れた静寂に飲み込まれそうになる。


「好きよ、エドワード」


 私は両手で彼の胸を押した。エドワードが傷ついた顔をしているから、私の心臓は苦しくなる。こんな顔をさせたいわけじゃないのに。けれど、それでも私は言わなければならない。


「私は、あなたの隣にいるのに相応しくはない」

「……君は、ランドルフではなくなるだろう」

「そうじゃないの」


 ランドルフの養子であるとか、そんなことは関係がない。そんなことよりも。


 また、逃げたくなる。私はいつも、このことを考えると逃げてしまいたくなる。けれど、紛れもない事実で、私の罪だ。


「私は領地を捨てた女よ」

「それ、は」


 エドワードは私から目を逸らした。


「……君だけが悪いわけじゃない」

「そう思う人もいるかもしれない。でも、私はそう思わない」


 私は何をされようとも、決して領地を、領民を見捨ててはいけなかった。それができなかったのは、私が未熟な愚か者だったからだ。


「シェルヴァ公国の為を思うなら、領地を捨てるような女を、ただ好きだからという理由で選んではいけない。独立後は特に、公国のためになる人を選ばなければならないでしょう」

「俺に、他の女と結婚しろと言うのか」


 私は耐えられず、下を向いた。


「……選択肢には入れるべきだと思う」


 耳の奥が痛んだ。目眩がする。


「君は、何を言っているのか分かっているのか」

「私だって、あなたを諦めたいわけじゃない!」


 顔を上げれば、エドワードは怒りを必死で抑えているような表情をしていた。私は咳を一つして、言った。


「エストラシア王国って知ってる?」


 エドワードは、それがどうしたと眉を寄せる。


「……南西にある国だろう。独立から十年、公国と同規模の国が近年力をつけてきていると注目していた。それに、エストラシアの研究機関が出している論文を読んだことがある。鉱山労働の安全確保についてのものだ」

「そう」


 エドワードがエストラシアを知っていてよかった。話が進めやすくなる。


「エストラシアの王女様がブリジア語の教師を探しているの。私はそれに立候補していて、昨日、内定をもらったわ」


 私はエストラシアから届いた手紙を出した。エドワードはそれを受け取って読み始める。


「条件のところを見て。教師としての時間以外はエストラシアの大学で留学生として学ばせてくれるの」


 私がお願いした条件を、エストラシアは快く受け入れてくれた。エストラシアが国策として留学生の受け入れを推進していることも関係しているのだろう。


「……いい条件だと思う」


 エドワードは冷静さを取り戻していた。


「エストラシアの教育改革については知っている。国籍問わず優秀な研究者を大学に招いているそうだな」

「ええ。あなたが言うように、鉱山労働の安全性について研究している人もいるそうよ」


 私はどうか届くようにと、一言ひと言、大切に言った。


「私がシェルヴァ公国とエストラシア王国の架け橋になる」


 大それた発言だっただろうか。


 笑われてしまうかもしれないと思っていたけれど、エドワードは手を顎に当てて考え始めた。


「……研究だけじゃない。地理上でもエストラシアと同盟が組めることは軍事的価値がある。いつかは国交をと思ってはいた」


 それでも、と、エドワードは付け加える。


「それでも、俺は反対だ。君がオフィリア・ハリディでいるならば尚更だ。俺が君に対してできることがなくなってしまう」

「分かっているわ」


 夫婦でもない、ただの隣国の男爵令嬢。独立を果たしたばかりの国が、その程度の繋がりしかない女に割ける時間も、金も、人もあるわけがない。そんなの、覚悟の上だ。


「私はあなたを頼るつもりはない」

「……本当に分かっているのか。国交も結んでいない国だ。君になにかがあった時に、ハリディ男爵がどれだけ抗議できると思う」

「ほとんど力にならないでしょうね」

「そうだろう。君はブリジア王国の後ろ盾も得られないんだ。それなのに、どうしてそんなことを」

「エドワード」


 彼の手に触れる。剣だことペンだこだらけの硬い手。私の大好きな手だ。この手を私は、手放さなければならない。


「私をあなたに好かれているというだけで公妃の座につくような、愚かな女にさせないで」 


 愛されているから、愚かでも、その資格がなくても公妃になる。そんなこと、間違っている。


 私は公国の役に立つ人になりたい。それが私の選ぶ正しい道だ。


「……俺は君を愚かだなんて思ったことがない」


 エドワードはぼそりと言う。


「ただの一度もだ。昔の君は確かに教わるべきことを教われなかったかもしれないが、それでも……皮肉なことにランドルフ侯爵家の養女として認められるくらいの教育は受けただろう。君が今公妃の座につくことを、俺は愚かだとは思わない。だが」


 大きな手の平が私の手を包み返す。


「君はそれでは納得ができないんだろう」


 私は頷く。エドワードから大きなため息が漏れた。


「……どのくらいの期間だ」

「三年よ。たった三年」

「三年、か」


 灰色の瞳は、しっかりと私を見つめ返した。


「君の意思を、尊重する」


 私は彼の胸に飛び込んだ。


「ありがとう、エドワード」

「無事でいてくれ。……絶対に」

「ええ」


 私たちは暫くの間、強く抱きしめ合った。


 近く来る別れが私たちの本当の別れになってしまう可能性だって、きっとある。三年が短い時間ではないことを、私たちは知っていた。


 それでも、たった三年だ。私たちは三年間すれ違っていたとしても、こうして元に戻れたのだ。


 待っていてほしいなんて言えない。その場に相応しい人がいれば、エドワードはその人を選ぶべきなんだと思う。


 それでも、私はやっぱりわがままだ。私が公妃として相応しい人になって戻ってくるまで、どうか、この場所を空けておいてほしい。あなたの体温を、匂いを、鼓動を、優しさを、他の誰にも渡さないで。


 言葉にできぬ思いを伝えるように、ただ、抱きしめた。

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