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104. 逃亡先 2

「逃亡、先……」

「ああ、待たせて悪かった」


 私は首を振る。正直に言うと、忘れかけていたのだ。


 初めてヒューに依頼をした頃、私はもう限界だった。父母が殺され、ランドルフに養子入りし、酷い暴力を受け、それでもエドワードと一緒にいられるならと思っていたのに、エドワードは私を忘れてしまったかのように扱った。

 耐えられなかった。逃げ出したかった。けれどランドルフのせいで逃げ出すこともできなかった。


 けれど状況は少しずつ変わっていった。私とエドワードとの間にあった誤解は解けて、シェルヴァ公国の独立に向けて協力するようになった。


 それでも依頼を取り下げなかったのは、当時は叔父との関係が改善する前だったし、エドワードとの仲もまだどこかぎこちなかったからだ。シェルヴァ公国が独立し、ランドルフから逃れられたとしても、私はこの国に自分の居場所があると思えなかった。


 だから私はヒューに、身分を隠さずとも過ごせる場所を探してほしいという条件の変更を申し出た。ランドルフに見つからず、平民としてやり直せる場所よりも緩い条件だ。


「エストラシア王国は知っているか?」


 ヒューはブリジア王国から遠く離れた小国の名を告げた。かつて大国の支配を受けていたが、十年程前に独立し、近年力をつけてきている国だ。その躍進は目覚ましく、数年も経てば大国に並ぶ列強になるだろうと言われている。


「知ってるわ」

「ああ、公妃様はエストラシア語が堪能だ」


 ヒューは揶揄うように言う。


「……よくご存知で」


 今となっては恥ずかしい過去だ。私はエストラシアについて学ぶことでシェルヴァ公国の役に立てると思っていた。その後エドワードと仲違いすることになるとは思ってもいなかったのだ。


「そのエストラシアで、末のお姫様がブリジア語の教師を探している」


 ヒューは続けた。


「エストラシアとブリジアは国交が結ばれていないだろう。だから教師探しに手間取っているんだ。そもそも、ブリジアにはエストラシア語が話せる人がほとんどいない」


 そうだろうと思う。私がエストラシア語を学ぶことができたのも偶然だった。ランドルフの図書室で司書をしていた老紳士が、過去エストラシアの独立戦争に義勇兵として参加していたのだ。私は彼から生きたエストラシアの言葉を学ぶことができた。そういった巡り合わせがなければ文字を読むことはできても会話はできるようにはならなかったと思う。


「さらに朗報だ」


 ヒューは私の顔の前で指を立てた。


「三日後、立太子したカーティス殿下がこの国に正式に挨拶にくる」

「……カーティス王子が?」


 カーティス王子と最後に会った日のことを思い出す。帰国する彼に用意された残忍なシナリオ。彼は課された役割をこなしたのだろうか。


 カーティス王子の話を詳しく聞きたくなったけれど、話が逸れてしまうと思いぐっと呑み込んだ。


「……それがどうして朗報なの?」

「王太子殿下の曽祖母君がエストラシア王家の出身だからだ。願えば伝手になってくれるだろう」

「……ああ、だから」


 いつか、カーティス王子とエストラシア王国の話をしたことを思い出した。彼はエストラシアについて詳しかった。当時はエストラシアとイグラドに国交が結ばれているからだと思っていたが、彼がエストラシア王家の血を引いていたからだったのか。


 王家の血を引くカーティス王子の推薦であれば、見ず知らずの私が教師に選ばれる可能性も全くないというわけではないのかもしれない。


 どこかで夢のようだと思っていた話に、現実味が帯びてきた。鼓動が段々と速くなる。全身に血が巡って、足の指先がじんと痺れる。


 エストラシア王女の教師。これ以上ない魅力的な逃亡先だ。うまくいけば、勤務時間外にかの国で学ぶ機会を与えてもらえるかもしれない。


 けれど——


「どうした、公妃様。心配事か?」


 私の憂慮をヒューは敏く感じ取った。見透かすようなその顔に、私は自分が恥ずかしくなる。確かに私は、ほんの一瞬——エドワードの顔が浮かんだのだ。


 エドワードの胸の中にいる幸せを、思い出してしまった。あの幸せを、どうして自ら手放さなければならないのだろう。


 ヒューを見上げる。私はまた彼に何かを言ってもらえることを期待していたのかもしれない。ヒューは私の期待には答えずに、ふっと笑った。


「あの王子の来訪まで時間がある。三日間、ゆっくり考えればいいさ」


 それだけ言って、ヒューは夜空に消えていった。

 バルコニーに一人残される。寂しくて、心許なくて、泣きたくなった。私は何がしたかったのか、どうしてここから逃げようと思ったのか、思い出そうとする。けれど頭の中はいつまで経っても真っ暗なままだった。

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