100. ある御者の話
承知いたしました。あたくしはもう覚悟を決めましたからね、ええ、全てを申し上げますとも。
あたくしは酷い目にあったんですよ、それはそれは酷い目に。ああ、思い出すだけでも恐ろしい。見てください、ほら、両の腕に鳥肌がたって、あたくしはもう、体の震えがとまらなくなるのです。先程はあたくしがまるで自分の進退についてだけ気にしているようにおっしゃっておりましたが、違います。あたくしは恐ろしくて声がでなかったのです。
一体何から申し上げましょう。ああ、あたくしはハリディ家の旦那様に感謝しておりました。
辻馬車の生活も十分気に入っておりましたが、お客というのは大体が自分の方が偉いと勘違いしている者ばかりですからね。命を握っているのはあたくしの方だというのにふんぞり返って命令してきて、ああ、嫌だ。嫌なやつばかりでございました。
旦那様は違いました。旦那様はあたくしのようなものにも優しくしてくださって、屋敷で働かないかなんて言ってくださって。ええ、感謝しているのです。
ええ、ええ、事故のことですね。申し上げますとも。
あたくしはお休みをいただきますと、少し遠い町に出て酒を飲むのを生きがいにしておりました。女なんて買いやしませんよ。女なんて、興味がない。柔らかい肉の下に醜い本音を隠しているくせして、一向にそれを明け渡しはしない。あんな生き物には興味なんてございません。
あたくしはね、もっと小さくて醜い人間が好きなんです。ええ、だから酒が好きなんでございます。素面のときはなにか自分が立派なことをしているかのように偉ぶっている男が、酒を飲んでその小さな本性を現すのが、一等好きでございました。そういう男は、こちらが気持ちよくへりくだってやれば、普段隠している誰にも言えない秘密やとても表に出せないような醜い本性を簡単に話してくれるものでございましたから。
その男に出会ったのも酒場でございました。
男は始め、粗い言葉を使ってらっしゃいましたけどね、あたくしはすぐにわかりましたよ。この男はいいところに勤めている賢い男なんだと。人間の生まれというものは隠せやしません。体臭や爪の先に生きた痕が滲み出るものでございます。
あたくしはその男を大層気に入っていましてね。なにしろ、いいところに勤めている男は金がありますから、きもちよく話させてやって酔いつぶしてしまえば、いくらでも懐から拝借できますでしょう。記憶なんてございません。酔いつぶれているのですから。ええ、随分といい思いをさせていただきました。
ですがその男、とんだ狐だったのです。
ある日あたくしがいつも通り酔いつぶれた男の懐を探っていますと、男ががばっと頭を上げて、あたくしの手を掴んで言ったのです。おい、盗人野郎。お前今、俺の金を盗もうとしただろう。俺ぁある貴族の元で働いているんだ。旦那様に言えば、お前なんて首が斬られるぞ。
……まったく、酷い目に遭いましたよ。あたくしは騙されていたんです。男は寝た振りをして、あたくしを泳がせていたんですよ。
あたくしはもう怖くて怖くて。許してください、どうか勘弁してくださいと謝りましたら、あたくしの誠意が伝わったのでしょう、男は不問にする代わりにある仕事を任せたいと言ったのです。
ええ、それが、旦那様の外出の予定を報告することでございました。
ああ、ああ、怒らないでくださいまし。あたくしだって殺されるところだったのですよ。命を人質にされちゃあどうしようもねえ。それに、ただ予定を報告するだけですから、そんな恐ろしいことも起こらないだろうと思っておりました。あたくしはただの御者でございますから。予定を報告した先で何が起こるかなんて、そんなことを考えられるほど賢くはございません。
そうしてあの日、旦那様が王都に向かうということを報告しましたら、男は、お前が御者をしろ、言う通りの道を通れと言い出しまして。ええ、もう、仕方がない。あたくしは弱みを握られていますから、そりゃあもう、言いなりになるしかございません。
あたくしは王都へ向かう旦那様の御者へ立候補し、そうして男の言う通りの道を通ったのでございます。
矢が、飛んできたのです。男に指定された道を通った時、急に、矢が。矢は馬車を引いていた馬の脚に刺さりました。馬は暴れ、馬車は転倒いたします。旦那様も、奥様も、崖の下に落ちていきます。お二人の上に、キャビンが降っていきます。ああ、恐ろしい。恐ろしい事故でございました。
あたくしですか。あたくしは、こんなこともあろうかと馬に飛び乗れる準備をしていましたから。ええ、もう、ですから、指定された道を通れなんて襲撃をしますと言っているようなものではないですか。ええ、ええ、違います、お嬢様。あたくしは襲撃が起こるなんて知らなかったのです。誤解でございます。
とにかくあたくしは矢が放たれたあと、すぐに馬に飛び乗り、馬車から馬を切り離して逃げました。ああいう輩は執念深いのを知っておりましたからね、あたくしのことも生かしてはおくつもりはないのだろうと思っておりました。
ですのであたくしは暴れ馬に振り回されているふりをして森の中に入りました。用意しておいた包帯と薬で馬を手当てしながらでございます。ええ、早く走れないのはむしろ僥倖でございます。あたくしには男たちの足音が聞こえますが、男たちにあたくしたちの気配は気取らせませんから。ええ、広い森の中に一度入ってしまうと、そう簡単に見つかるものではございません。
そうして追っ手をかわしながら、森を抜け、近くの町まで辿り着いたのです。その町はあたくしが辻馬車を引いていた頃によく訪ねていたところでございました。
あたくしはちょうど、酒飲みの男を一人知っていました。なあに、大した男ではございません。そいつは酔った時に女房を殴って、挙句逃げられるような男ですから。悪人でございます。
あたくしは旦那様の倉庫から盗んでおいた酒をそいつに差し入れたのです。旦那様はいい酒をもっていらっしゃる。お陰様で、すぐに酔いつぶすことができました。酔いつぶれた人間は、体が重いでしょう。本当に、酷い目に遭いましたよ。
そいつにあたくしの服を着せてあげましてね、ひと気のない場所を選んで、馬で何度も引き回したのです。ええ、そりゃもう、酔っているからといって、馬に引かれれば目が覚めます。ですが口の中に綿をつめておりましたから、大声で他の人の迷惑になるようなことにはなっておりません。あたくしは、夜中に大声で叫んで人様に迷惑をかけるような酔っ払いは軽蔑しております。そんなこと、いたしませんとも。
暫くして、男は姿も分からぬ程になりました。あたくしは事故現場から少し離れたところに男を置いて、その場を離れました。
そのまま近くの町にいてもよかったのですが、もしあのあたくしを陥れた男たちと会ってしまったら困るでしょう。ですからあたくしは、怪我をした馬とできる限り歩いたのです。
あたくしたちは二人とも、手負いの身。いつの間にか力尽き、倒れておりました。
そこで拾ってくださったのが、オッグ男爵家でございます。あたくしはあのあたくしを陥れた男たちに見つからないよう素性を隠して、匿っていただくことにしたのです。
ええ、これが、あの事故の真相でございます。あたくしは巻き込まれただけの被害者だと分かっていただけましたでしょう。本当に、恐ろしいことです。恐ろしい目に遭いました。あんなことはもう、二度と経験したくない。
ええ、ええ。あたくしだって、そりゃあ、あの男に見つかって殺されるなんて御免でございますからね。ただただ隠れていたわけではございません。
馬に刺さった矢や、男の懐から盗んだものだってちゃあんと保管しております。ほら、これなんていかがでしょう。結構値打ちのあるものではないでしょうか。男のつけていたカフスボタンでございます。あたくしは大事にとっておいたのですよ。
ええ、あの男の顔も覚えておりますとも。人の顔が覚えられないようじゃ辻馬車はやっていけません。あたくし、旦那様に拾って頂く前までも結構稼げる男だったのでございますよ。
え? ええ、この、カフスボタンでございますか。どうぞどうぞ、お貸しいたしましょう。はあ、家紋でございますが。存じ上げませんが、ええ、ええ、なるほど。ランドルフ。聞き覚えがございます。確かに男は酔いつぶれた時に申しておりました。俺は高貴なランドルフ侯爵家の騎士だぞ、と。




