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1. 夫の愛人

 秋の香しい風が中庭に吹き込んだ。三日前、このタウンハウスに来たばかりのシャーロットは、見事に整えられた庭にほうっと息をつく。

 薄い色の花々は控えめではあったが、屋敷全体で調和が取れていて、この完璧な空間で自分だけが異物なのではないかと不安になってしまうのだ。


 そんな彼女の元に、一人の男が近寄った。この屋敷の主人――シェルヴァ公国の公爵、エドワード・グレイだ。鋭い狼のようなこの男は、数年前の戦争では最前線で笑いながら敵国を蹴散らしたという。


 エドワードは彼女の乱れた髪に手を伸ばした。指先が耳の淵に触れ、シャーロットの胸は大きく高鳴る。そうしてすぐに、切なくなった。


 こんなはずではなかった。

 自分を見つめる男に、複雑な気持ちが湧き上がる。


 彼のことが好きだ。今すぐに彼の胸の中に飛び込んで、彼の体温に包まれる幸せを感じたい。叶うものなら、私だけのものだと彼を独り占めしたい。だけど、そんなことが許されていいわけがない。

 だって、私はただの愛人――彼には奥様がいるのだから。




「……なーんてね」


 窓越し、遠く見える二人を見下ろしながら、私――オフィリア・グレイはひとりごちた。

 視線の先には、私の夫エドワード・グレイと愛人シャーロットがいる。仲睦まじそうにタウンハウスの中庭を散歩する二人の間には桃色の空気が漂っていて、私はついよこしまな妄想を捗らせてしまうのだ。


「だめぇ、公妃様がいらっしゃるのに! よいではないか、オフィリアは見ていない! ……って、ふふ、私、今見てるのに」


 自分の口から出たくだらない台詞を笑って、くるりと回りながらベッドに倒れ込んだ。公爵閣下とその愛人、彼らが主役の歌劇があるなら、私は愛人を虐める意地悪な妻役だろうか。


「この賤しい泥棒猫めっ」


 悪妻のような台詞を吐いてみたけれど、高く細い私の声ではどうも迫力が出ない。もっと腹に力を入れればそれらしくなるだろうか。


 頭をひねりながら練習をしていると、不意にノックの音が聞こえた。

 私の返事を待つことなく、無遠慮に扉が開かれる。


「オフィリア様、準備のお時間です」


 扉の向こうに立っているのは何名もの従者たち。ぞろぞろと部屋になだれ込んできた彼女たちはドレッサーの前に集まると、早くしろと言わんばかりに私を睨みつけた。


 はいはい、今行きますよっと。声に出さずに、ベッドから飛び降りる。

 鏡の前に座ると、彼女たちは途端に私の首から上に飛びついた。髪を梳き、顔に粉をはたき、眉を引く。朝のぼんやりとした顔がみるみるうちに輪郭を持ちはじめる。


 その様子を見ていると、私の顔というものが本当に存在するのか、はたまたこの色つきの粉が私なのか、分からなくなってくるのだ。


「ねえ、私って美しいかしら」


 私は傍に立っていた侍女のアデルに視線をやった。

 アデルはまた面倒なことをと言わんばかりに私を一瞥する。それでも私が彼女を見つめ続けると、彼女は二、三咳払いをしたあと、胸の前で大げさに手を組み歌いだした。


「おお、春の妖精 亜麻色の髪が私を拐い 澄んだ泉の瞳が私を惑わせる 白露の降りたベリーの唇は甘く 白い肌に埋めた指は深く柔らかに沈み込み……♪」

「……やめて」


 彼女の歌を遮るように手を振ると、アデルは意地悪に口の片端を上げた。


「かの有名な作曲家がオフィリア様の美しさを歌った曲ですよ。こんなに惚れこまれた人は他におりません」

「知らない人にそんなふうに言われるのは気持ちが悪いわ」

「偉大な芸術家ですよ。他にもオフィリア様をモチーフにした絵画や石像なども……」

「もう、私が悪かったから、やめてよ」


 だって、彼女が挙げたどれも、私の本意ではなかった。全部勝手に好かれて、勝手にインスピレーションを刺激されて、勝手に作られていたのだ。特に今歌われた歌。突然目の前に現れた人が「あなたに捧げる」なんて跪いた時、私がどれほど恥ずかしかったことか。


 むくれて唇を突き出せば、ちょうどいいと口紅を引かれた。私の化粧は完成し、鏡の中に歌われた通りの春の妖精が現れる。


「オフィリア様が美しさを気にされるなんて珍しいですね。あの愛人のことを気にされているのですか?」


 アデルは私のコルセットを締めながら聞いた。内臓が圧迫される感覚は私の憂鬱を増幅させる。


 ――シャーロット。私の夫、エドワード・グレイが突然連れてきた、彼の愛人。


 思えばあれは、結婚後、私たちが初めて交わした言葉だった。

 エドワードの書斎。一体何を言われるのだろうと緊張していると、エドワードは「今日から彼女はこの家で暮らす」とシャーロットを紹介した。私は文句の一つでも言ってやろうと勇んだのだけれど、彼女の魅力の前に、何も言えなくなってしまった。


 肩まで伸びたシャーロットの髪の毛は、紫がかったダークブラウンという不思議な色をしていた。長いまつ毛に守られたアメジストの瞳。薄く引かれた橙色の口紅。その唇から発せられる、色気のあるハスキーな声。背の高い彼女は鍛えているのか、細身のドレスがよく映える引き締まった体をしていた。


 つまり、私と真逆のタイプだ。


「ほんと、随分な当てつけよね」

「公爵様はオフィリア様のような方が好みだと存じておりますが」

「私もそう聞いていたんだけど」


 エドワードは私のような女が好みだという話だったから、私が政略結婚の相手に選ばれたのだ。

 それなのに、まさか本当に好きな女はシャーロットのようなタイプだったなんて。人の噂ほどあてにならないものはないのかもしれない。


「それにしても、まさか首都にまで連れてくるとは思わなかったわ」

「社交界に出すつもりでしょうか」

「ええ、愛人を? ……そんなこと、あるかしら」


 否定してみたけれど、社交界シーズンにわざわざタウンハウスにまで連れてきたのだ。あり得なくはない。

 愛人を同行させる夫を想像して、私の胃袋は一層締め付けられた。


「準備が終わりました。さあ、行きますよ」


 あなたの会話のお相手も終わりだと、アデルは言外にそう滲ませた。少し寂しく思ったけれど仕方がない。時間に遅れるなんて失態は許されないのだから。


 私は侍女たちが作る扉までの道を憂鬱に歩き出した。


 ***


 見晴らしのいい庭園の中に、その離宮はあった。ヴェネッサ王妃のために建てられたそれは、絢爛な王宮とは違い一見して地味に見えたが、その実相当な趣向が凝らされている。

 例えばこの廊下。ただ真っ白な廊下だと思って視線を上げれば、天井も壁も全てが芸術作品だというように細かな彫刻が施されている。初めてこの離宮を見た時は、あまりの美しさに眩暈がしたものだ。


 何度も訪ねたことのある私は、美しい装飾を紹介されることもなく、すぐに応接室に通される。

 応接室を飾るのは、落ち着いた調度品に、決して下品にならないよう厳選された新進気鋭の画家の絵画。芸術好きな人ならば、この応接室だけでも何時間も過ごせるかもしれない。


 美しい絵画をぼんやり眺めていると、ドアノブの回る音がした。私は急いで立ち上がり背筋を伸ばす。

 扉が開ききると、奥から美しい淑女が姿を現した。


 ブロンドベージュを綺麗に結い上げたその淑女は、深緑のドレスを纏っていた。年齢に即した彼女の上品さは、全ての女性に歳を取ることの恐怖を忘れさせる程美しかった。


 私はその雰囲気に圧倒されながらも、昔彼女に習ったお辞儀を披露した。


「オフィリア・グレイが王妃様にご挨拶申し上げます」

「久しぶりね、オフィリア」


 ヴェネッサ王妃は私の向かいのソファに座ると、顎を上げて私に座るように促した。お辞儀は合格だったようだ。ほっと息をついて、腰を下ろす。


「本当にお久しぶりですね、王妃様。離宮へお伺いするのも一年ぶりですから」

「……ふ、よくもまぁ、そのように笑えること」


 ――王妃様のその一言は、私に立場を分からせるのに十分だった。

 頭の先からつま先まで、ゆっくりと血液が抜けていくように冷たくなる。


 ああ、間違えてしまった。王妃様のあれは挨拶なんかじゃなくて、皮肉だったのだ。


 全身が心臓になったかのように拍動した。私は取り繕おうと口を開けるが、言葉が出てこず、何度も口を開いては閉じる。


「あの女についてはどう説明をするつもりかしら」


 ああ、やっぱり、シャーロットの件を問い詰めるために呼ばれたのか。


 私をエドワードと結婚させたのは王妃様だ。それなのに私は王妃様の望む通りの役割も果たさず、挙句愛人を作られる始末。王妃様がお怒りになるのも、仕方がない。


「子を作らないどころか、子種まで奪われるとは。その下品な体は何のためにあるのかしらね」


 王妃様は側にいた侍女に何かを言いつけた。侍女たちは静かに頷いて、応接室を出ていく。


 いやだ、始まってしまう。

 私は恐怖で俯いた。静かな応接室に私の浅い息だけがうるさく響く。いやだ、いやだ、助けて。


 再び扉が開かれる音がする。侍女が戻ったのだろう。

 体を震わせ、今にも気を失いそうな私に、王妃様は冷たく言った。


「立ちなさい、オフィリア」


 顔を上げると、一本鞭を手にした王妃様が、冷酷な顔で私を見下ろしていた。

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