第八話 聖女
エミリー・モレッソの葬儀は、彼女が育った孤児院に併設する教会で、たくさんの友人や同僚達に見守られながらしめやかに執り行われた。
あまりに早すぎる死を、誰もが悔み、誰もが悲しんだ。遺体にしがみついて咽び泣く友人、真っ赤に目を腫らして唇を噛み締める先輩、「愛しているわ」と何度も囁いてあげる院長、彼女から貰ったぬいぐるみを大事に抱き締める小さな子ども達。
棺には、エミリーが愛用していた針道具と、皆が思い思いに認めた手紙、それから白い百合の花をたくさん入れた。彼女が寂しくて泣いてしまわないように。女神のもとでも、大好きな裁縫を楽しめるように。幸せだけが満ちる世界で、ずっとずっと笑っていられるように。
最後はエミリーがよく口ずさんでいた曲を皆で合唱し、笑顔で彼女の旅立ちを見送った。大きな夢を胸に孤児院を出たあの日と、同じように。院長の奏でるパイプオルガンの、優しくあたたかな音色に合わせて。
ありがとう。大好き。また会いましょう。棺の蓋が閉め切られるその時まで、別れの言葉を口にする者は誰もいなかった。
「あら、先客がいらしていたのね」
背後に人の気配を感じ、シオンは閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。胸の前で合わせていた両手を解き、屈めていた腰を上げて悠然と振り返れば、美しく磨き上げられた身廊に、小柄な女がひとり立っていた。
緩くウェーブのかかった、長いホワイトブロンドの髪の毛。ぱっちりとした丸い目に、灰青色の大きな瞳。ステンドグラス越しに差し込む陽光に照らされて、色白の額に浮かんだアクアブルーの聖痕が、まるで宝石のようにきらきらと輝いている。
その崇高な姿を見つめ、シオンは思いがけない訪問者の登場に、僅かばかり目を見張る。聖導院――王都にある女神信仰の総本山――の大聖堂にいるのだから、彼女と邂逅するのは何ら不思議なことではない。しかし、彼女の聖務――毎日の祈祷――は、朝と夜の二回と定められているはずだ。それ故、真昼に相まみえることになるとは、少しも思っていなかった。
「御機嫌よう、聖女様」
そう言いながら、シオンは左足を引いて膝を曲げ、優雅な所作で恭しく一礼する。
――聖女・リュミエラ。この世界にたった一人しか存在しない貴い使徒であり、女神・エリシエルのお告げを受ける唯一の者。女神信仰の盛んなこの国で、彼女の持つ影響力は図り知れず、その人気は国王をも凌ぐと囁かれるほどだ。五穀豊穣と国民の安寧を願う“神恩祈念祭”といった大祭以外にも、町々の修道院を訪れたり、療養所を見舞いに回るなど、国民の為に献身的に活動をする彼女への信奉は、国内外問わず随分と根強い。
「ご機嫌よう、シオン嬢。尊き祈りの時を乱してしまって、ごめんなさい」
彼女が歩む度に純白の衣が軽やかに揺れ、まるで流水のように滑らかなシフォンの裾がふわりと舞う。
「聖女様も、お祈りにいらしたのですか」
「ええ。……またひとつ、尊い命が失われてしまったと聞きましたので」
シオンの隣に並び立ち、リュミエラは静かに腰を落として、床に両膝をつく。その仕草ひとつひとつに無駄はなく、実に洗練されていて神々しい。そんな彼女の様子を、まるで天使が舞い降りたかのようだ、と喩えたのは、果たして誰だっただろう。足元に広がる裾は、まるで薄く積もった淡雪のようにやわらかで儚く、所々に縫い付けられた金糸の刺繍が、淡い光を帯びてきらめいている。
白く細い指を胸の前で組み、リュミエラは僅かに頭を垂れて、ゆるやかに瞼を閉じた。色素の薄い長い睫毛が、白磁のような目元にひっそりと影を落とす。
「どうか尊き命が、安らぎのもとへ導かれますように――」
清らかな声で紡がれる祈りの言葉を聞きながら、シオンはそっと顔を逸らし、荘厳な祭壇に飾られた女神・エリシエルの巨大像に目を向ける。いつ頃造られたものであるのかは定かでないが、数あるエリシエルの立像の中でも最高傑作と称されるその像は、まるで女神自身がその場に佇んでいるかのように美しく、とても神秘的だ。大地を抱き締めるように伸ばされた、力強くもやさしい両腕。風に靡くように流れる、蔦の絡みついた長い髪の毛。足元には無数の草花が咲き、それらを幾本もの木の根が輪廻を描くように取り囲んでいる。
――“呪われた王太子”なら、尚の事だ。
不意に脳裏を過った不快な声に、シオンは慈愛に満ちた女神の柔和な顔を見上げたまま、胸の内でひっそりと溜息をつく。今日はエミリーの為に祈りにきたのだ。余計なことは、何も考えたくない。
「そろろそろ失礼いたしますわ」
もう一度丁寧に礼をして、シオンはリュミエラが立ち上がるより先に、悠々と踵を返す。身廊の両脇に並べられた無数のチャーチチェアには、礼拝者どころか、珍しく付き人の姿もまるでない。
静謐な聖堂内に満ちる色とりどりの光が、大理石の床に幾何学的な模様を映している。その上をゆっくりと進みながら、シオンはそっと顔を上げ、入口の上部に嵌め込まれたステンドグラスのバラ窓に目を向ける。大地の女神、万物の母。偉大なる英雄王。勇敢な四騎士。
「シオン嬢」
身廊の中ほどまで進んだところで名を呼ばれ、シオンは足を止めて振り返る。祭壇の置かれたアプスの真ん中で、リュミエラはまるで女神・エリシエルのそれのように、優しく微笑んでいた。ランセット窓から燦々と降り注ぐ陽光に照らされ、ホワイトブロンドの髪の毛が、きらきらと淡く輝いている。
「――貴女に、女神のご加護があらんことを」
***
「調査結果は、全てこちらに記載されています」
差し出された資料の束を受け取り、ノアはどさりと背凭れに寄り掛かりながら、深々と溜息をつく。新しい情報が出てくるだろうか、という期待はそもそもなかったが、それにしても渡された紙の束は、思っていたよりも随分と薄い。
「相変わらず、手掛かりは毒だけか」
先日毒殺されたエミリー・モレッソの体内からは、部屋に置かれていた小瓶の中身――赤黒い液体――と同じ、フロストバイトが検出されている。つまり彼女は、舞踏会で殺された子爵家の令嬢に次ぐ、連続毒殺事件の六人目の犠牲者と考えるのが妥当だろう。フロストバイトは、原料である花から抽出することが非常に難しく、また抽出すること自体も法によって厳しく管理されている。故に希少性が高く、誰でも手に入れられるような代物では決してない。
「原料の流通についても調べましたが、特に大きな変化はないようです。在庫の管理も医の一族が厳しく行っていますし、どこかから流出したという可能性は低いでしょう」
「そうか。ならばあの悪魔のような猛毒は、一体どのようにして生み出され続けているんだろうな」
意地の悪い問いに、アデルは眉根を寄せながら口を噤む。いくら若き俊英といえど、答えに窮するのは仕方ない。それを知っているのは、今もこの王都のどこかで無慈悲にほくそ笑んでいる、凶悪な犯人以外にいないのだから。誰に問うたって、分かるはずがない。
資料の束をデスクの上に置き、ノアはゆっくりと腰を上げて、真昼の陽光にあたためられた窓辺へと歩み寄る。外は雲ひとつない快晴だ。エミリーが死んだあの日と同じ、どこまでも突き抜けるように澄んだ蒼穹が一面に広がっている。
――貴女の仇は私が取るわ。絶対に。
可愛がっていた少女の遺体を前に、シオンは涙ひとつ見せることはなかった。けれどもそれは、彼女が血も涙もない冷酷な人間だからというわけではないのだ、と、頬を撫ぜる白い指先を思い出しながらノアは思う。彼女は泣かなかったのではない。泣かなかったのではく、あれはきっと――。
「念の為、エミリー・モレッソの交友関係を洗っておいてくれ」
「かしこまりました」
窓枠に寄り掛かり、庭園に群生するクロッカスを眺め下しながら、ノアはそっと目を細める。
シオンはただただ優しく微笑んでいた。もう動くことのない冷たい躯をじっと見つめ、柔らかかったのだろう青白い頬を、何度も何度も撫ぜながら。
アデルに言わせれば、あれはほぼ無表情に近いものだっただろうけれど。それくらい些細なものでしかなかったけれど。
それでも確かに彼女は、慈愛に満ちた優しい顔をしていた。女神・エリシエルの湛える、あたたかな笑みのように。