第七話 無言の再会
恐ろしい夢を見た。赤々と色付いた靄に呑み込まれ、ただ藻掻き苦しむことしか出来ない、ひどく恐ろしい夢を。
目が覚めて、シオンは暫くの間じっと天蓋を見ていた。浅い呼吸を、何度も何度も繰り返しながら。微かに震える右手を、ぎゅっと強く握り締めて。身体を蝕む恐怖が少しずつ薄れてゆくのを、ただただ静かに待っていた。待つことしか、出来なかった。心臓が、どくどくと激しく鳴っている。今にも胸を突き破って飛び出してきそうなほど、苛烈な勢いで。
どれくらいの時間が経っただろう。一分だったかもしれない。数十分だったかもしれない。はたまた、一時間だったかもしれない。やがて呼吸が落ち着き、シオンは疲れ切った身体をゆっくりと起こして、しっとりと汗ばんだ頬に手を添える。毛布に包まっていたはずなのに、身体はまるで雪風に晒された後のようにひどく冷たく、人形の肌にでも触れているみたいに正気がなかった。それでも心臓は、どくり、どくりと鼓動を繰り返し、“生きている”ということを否が応でも伝えてくる。お前は生きているのだ、と。これが現実で、そしてお前はその現実に生きているのだ、と。
気を緩めれば鼓膜の裏に悲鳴が蘇ってしまいそうで、シオンはゆるゆると頭を振り、そうして半ば身体を引き摺るようにして徐ろにベッドから降りる。寝汗のせいか、喉がひどく乾いてしかたなかった。サイドテーブルの上に置かれた水差しを手に取り、グラスに半分注いだ水を、身体が求めるまま一気に飲み干す。枯れた喉を潤しながらじわりと広がってゆく冷たさが、とても心地好い。
時計を見遣ると、時刻は午前五時を回っていた。空になったグラスをテーブルの上に戻し、シオンは両手を頭上に突き上げてグッと背伸びをする。起床の時間にはまだ随分と早いが、しかし今からベッドに戻っても、元のように眠れる気は到底しなかった。
仕方なく毛糸のショールを羽織り、窓辺に置かれた一人掛けのソファにゆったりと腰掛けて、読みかけの本に手を伸ばす。こういう時は他のものに耽るに限る。特に固く乾いた文章は、頭の中を活字で埋めるのにちょうどよかった。余計なものを全て追い出して、何もかもをなかったことにするには、とても。
ランプに明かりを灯し、あたたかな橙色に包まれながら、モスグリーンの表紙をやさしく開く。領土問題、税金、都市同盟、国家権力。堅苦しい文字の羅列されたページを捲る度、紙の掠れた微かな音がひとつずつ耳に届くほど、夜の帳に包まれたままの屋敷はとても静かだ。早朝独特の、透き通るほど澄んだ清らかな空気をゆっくりと吸い込んで、シオンは静謐な室内をくるりと見回す。ぴったりと閉じられたカーテンの隙間から今日一番の朝陽が漏れ込むには、まだ当分時間がかかるだろう。今日は雲ひとつない快晴だろうか、それとも、どんよりと濁った曇り空だろうか。
再び手元の本に視線を落とし、シオンは読み終えたばかりのページを徐ろに捲る。――と、その時だった。
「お、お嬢様ッ!!」
大きな叫び声とともに、寝室の扉が慌ただしく開く。駆け込んで来たのは、オリビアだった。まだ寝巻き姿の彼女は、窓際に座るシオンを見つけるや否や愛らしい顔をぐにゃりと歪め、そうしてずるずるとその場に崩折れる。アーモンド型の大きな目に、今にも溢れ出しそうなほどたっぷりと涙をためて。
「どうしたの、オリビア」
「あのっ……あ、あのっ……」
問いかけに、オリビアは必死に口を開いて答えようとするものの、動揺しているせいか言葉がうまく出てこない。華奢な身体が、異様なほど震えている。一目でそうと分かるほど。そんなオリビアの様子を見れば、只事でないのは一目瞭然だった。冷たい何かが、そっと背筋を這い上ってくる。
「お目覚めでございましたか、お嬢様」
遅れて室内に入ってきたヴィクターが、床にへたり込んで動けないオリビアの細い身体を厚手のショールで優しく包み込む。その温もりで箍が外れたのか、ついに彼女の目から大粒の涙がぼろぼろと溢れ出し、色白の柔らかな頬をぐっしょりと濡らす。声にならない声が、悲痛に震えている。
「いったい何があったの」
「実は……」
言い淀むヴィクターに、シオンはもう一度先を促す。僅かな沈黙が二人の間に落ち、そうして彼は何かを堪えるように瞬くと、シオンの双眸を見つめながらゆっくりと口を開いた。
「実は、エミリー嬢が――」
***
――いったいどこで、歯車は狂ってしまったのだろう。
石造りの冷たい廊下を歩みながら、シオンは幾度となく繰り返した自問を、無駄なことだと理解しつつも再び反芻する。いったいどこで。いったいどこから。彼女の歯車は、狂ってしまったのだろう。
靴音だけが響く静かな廊下を、二歩先を歩む聖騎士団員の精悍な背中に続いて突き進む。気を遣っているのか、それともこれが普通なのか。男は決して振り向くことも、言葉をかけてくることもない。ただただ沈黙だけが、静かな廊内に重く沈んでいる。
ふと窓の外へ目を向ければ、明り取り用の四角い枠の向こう側で、小さな鳥が二羽、仲睦まじく飛び立ってゆく姿が見えた。立派な白い翼を、ぴんと大きく伸ばして。目覚めたばかりの青い空を、思いのまま自由に。
「こちらです」
男が足を止めたのは、何の札も取り付けられていない、年季の入った木製の扉の前だった。シオンもまた足をとめ、その扉をただ静かにじっと見つめる。怖いのか、悲しいのか、それとも、憤っているのか。ありとあらゆる感情が、渾然一体となって腹の底に蟠っているせいで、却って思考は、ひどく冷静だった。なにひとつ取り乱すことなくここへ足を運べるくらいには。
男は規則正しい動きで扉をノックし、所属と名を手短に告げる。すぐさま内側から錠の開く音が聞こえ、ゆっくりと引き開かれる。
中から姿を現したのは、聖騎士団の制服をしっかりと身につけた、兄のシリル・アルヴェンヌであった。
「悪いな、シオン。こんな早朝に」
「……これも、私の務めですから」
団員の分厚い肩越しにシオンの双眸を見つめ、シリルは力なく笑う。ひどく疲労の滲んだ顔だ、と思った。それも致し方のないことだ、と、胸の内でひっそりと溜息をこぼしながら、シオンは兄に促され部屋の中へと足を踏み入れる。
廊下と同じ鈍色の石で造られた室内には、まばゆい朝陽が燦々と射し込む窓が二つと、簡易的な木製の椅子が三つ。その一つに腰掛けて窓の外を眺めている男の横顔を認め、シオンは思わず足を止めた。何故、と、喉元まで出かかった言葉を呑み込む彼女へ、シトリンのような金色の瞳がゆっくりと振り返る。
「こんな時間に呼び出してすまない。……君が、彼女の後見人だと聞いてな」
男――ノアの言葉には敢えて何の反応もせずに、シオンは部屋の中央に置かれた寝台へゆっくりと歩み寄る。一歩を踏み出すその足が、まるで鉛でもついているみたいに、重たくてたまらない。寝台の足元には無表情のアデルが、枕元には沈痛な面持ちのシリルが、横たわる人物を思い思いに見下ろしながら立っている。誰も、口を開こうとはしない。冷たく寂しい室内に、シオンの立てる足音だけがただ響き渡る。
寝台の脇で足をとめた彼女を一瞥し、シリルが躊躇いがちに伸ばした手で、顔を覆う白い布をそっと取り払う。その瞬間、シオンはたまらず息を呑んだ。嘘でしょう。きっと何かの間違いよ。部屋に入るまで縋っていたその一縷の望みすら、音もなく散り散りに消えてゆく。名を呼ぼうとして開きかけた唇は、しかし何も紡げぬままただ掠れたか細い息を吐き出すだけで。
空気を読んだアデルが、シリルを連れて部屋を出てゆく。その間もずっと、シオンはあどけなさの残る小さな顔から目を逸らすことが出来なかった。
「……エミリー」
昨日まではあんなに元気だったというのに。ヘーゼル色の瞳をきらきら輝かせ、弾けるような笑顔で、ドレスのことを、仕事のことを、仲間たちのことを、心の底から楽しそうに語っていたというのに。けれどももう、あの穏やかで明るい、大輪の花のような美しい笑顔は、どこにもない。ただあるのは、嘗てエミリー・モレッソだった、冷たい抜け殻だけ。
「夜半過ぎに、部屋で倒れているところを同僚が見つけたそうだ。急いで医者のもとに駆け込んだようだが、その時にはもう息をしていなかったと聞いている」
そっと伸ばした指先で、青白く染まった頬を優しく撫ぜる。孤児院で初めて彼女に会った時のこと。服のほつれを、見様見真似で一生懸命繕おうとしていた時のこと。一人前の立派な針子になって、いつか自分の店を持ちたいと語っていた時のこと。すっかり冷たくなった、それでも間違いなくエミリーであった肌に触れれば触れるほど、彼女とのたくさんの思い出が、次から次へと脳裏を過ってゆく。彼女はとても心根の優しい子だった。仕立て屋で働き始めても、定期的に孤児院を訪れては、大事な友人達ひとりひとりに自分の縫った服や小物をプレゼントしてあげるくらい、とても思いやりのある子だった。
「彼女の部屋から、液体の入った小瓶が見つかっている」
右手で彼女の頬を包み、シオンはゆっくりと顔を寄せて、二度と開かれない瞼をじっと見つめる。可愛くてたまらなかったあの笑顔を、とても美しかったヘーゼル色の瞳を、眼にしっかりと焼き付ける為に。
「――フロストバイトだ」
あんなにもぐちゃぐちゃだった感情が、跡形もなく、すっと消えてゆく。エミリーに触れた部分から、彼女の冷たさがどんどんと身体中に滲み広がってゆく感覚がする。――それが何であるのかを、シオンはよくよく知っていた。
だから意を決するのに、躊躇いは微塵もなかった。
「怖かったでしょう。苦しかったでしょう。悲しかったでしょう。辛かったでしょう」
徐ろに顔を離し、シオンは布の下に隠れたエミリーの右手を、ぎゅっと握り締める。貴女の夢を応援しているわ、と、孤児院の一室でそう告げた時と同じように。
「助けてあげられなくてごめんなさい、エミリー」
どうして彼女のような優しい子が殺されなければならなかったのだろう。どうして彼女のような何の罪もない子が殺されなければならなかったのだろう。
それはきっと、今まで殺された犠牲者達に関わる全ての者が思っていることだろう。一人目の犠牲者だった侍女の友人も、二人目の犠牲者だった女優の夫も、五人目の犠牲者だったカトリーヌの両親も。皆そう思っているに違いない。
世の中には理不尽な死があまりに多すぎる。いつの時代も、変わらずに。
「――貴女の仇は私が取るわ。絶対に」