第六話 針子見習い
「……だから言ったでしょう」
静かに閉じられた飴色の扉を横目に見遣り、アデルは呆れを含んだ溜息を腹の底から吐き出しながら、やれやれと大仰に肩を竦める。公爵家の一員といえど、マリウスやシリルのように明確な忠誠心のない人間を仲間に取り込むのは思慮に欠ける、という彼の意見――もとい小言――は確かに尤もだ。何も間違ってはいないし、だから誰に問うても同じ言葉を返すだろう。
けれども、行き詰まった状況を打破する為には、時として決まり切ったルールの真逆を突き進む必要もあるのだ、と。扉の裏に消えた華奢な後ろ姿を脳裏にくっきりと思い浮かべながら、ノアはどさりと音を立てて背凭れに深く寄りかかる。寧ろそういう異分子の方が利用価値が高い場合もあるのだ、と、そう言えばアデルはきっと眉根を寄せるに違いない。
それにしても――。そっと持ち上げた指先で左耳のピアスに優しく触れながら、ノアはひっそりとほくそ笑む。思っていたよりもなかなかに興味深い女だった。決して逸らすことなく真っ直ぐに向けられる深紫色の瞳も、蠱惑的な微笑を湛える赤い唇も、か細い喉から紡がれるしっとりとした声音も、何もかも。火の魔法を操るアルヴェンヌ公爵家は、その能力を反映したかのように代々赤髪を受け継いでいるけれども、そんな一族の子どもにしては珍しく、緩く編まれた彼女の艷やかな髪の毛は、まるで月のない夜を閉じ込めたかのような美しい黒色だった。話によれば遠縁の子爵家から迎えた養女であるそうだが、恐らくはその事実もまた彼女が“女狐”などといわれる所以でもあるのだろう。
「お前はどう思う?」
「わざわざ訊かないで下さい」
つっけんどんとした返答に、ノアはくつくつと喉を鳴らして笑う。そもそも彼は、シオンへの依頼には初めから難色を示していた。何を考えているのか分からない女だから、と。王族だろうが媚び諂うこともなく、それどころか拒絶を隠しもしない彼女に、アデルが不平を募らせるのも無理はない。
しかし、あの凛とした強かさにこそ、却って興味を唆られる。目を閉じれば今も尚、彼女のアメジストのような瞳が、瞼の裏の暗闇にくっきりと浮かんで離れない。鼓膜の裏に貼り付いた艷やかな声も、ふっくらとした妖しい唇も、白磁のように滑らかな白い肌も。彼女を形造る全てが、五感に、明瞭に焼き付いている。
――殿下が呪われていようがいまいが、そんなもの何も関係ありませんわ。
きっぱりと言い放たれた言葉を思い出し、ノアはたまらず吹き出して、そのままくすくすと笑いながらシェーズロングに横たわる。当人にそのつもりは微塵もなかったのだろうけれど。しかしあの発言は、実に愉快だった。
「“呪い”なんてどうでもいいと言われたのは、いったいいつぶりだろうな」
すっと瞼を上げて、ノアは傍らに控える従者へ静かに視線を向ける。その眼差しだけで言わんとすることを察したのか、アデルは咳払いをひとつこぼし、素知らぬ素振りで顔を背けた。どうやら彼にとっては、掘り返されたくない過去であるらしい。
「はっきりと断られたのですから、深追いはお辞め下さい」
忠告には敢えて返事をせず、ノアは真紅の天井を見上げたまま、にやりと口角を引き上げる。何の面白みもない女だったなら、適当な理由をつけてなかったことに出来ただろう。記憶の中から消し去ることだって、容易に出来たはずだ。
しかし、あの瞳を見てしまっては、もう――。開かれたカーテンの隙間から差し込む一筋の光に、今も明瞭と残る幽艶な微笑を重ねながら、ノアはゆっくりと目を細める。まるで新しい玩具を見つけた子どものような心地で。心底愉しそうに。
――あの瞳を見てしまってはもう、踏み出した足を引き戻すことなど、出来るわけがない。
***
「今作も最高でしたね、お嬢様! 特に主人公がヒロインを助ける場面なんて、胸がときめいてしかたありませんでした!」
「ええ、そうね。貴女が楽しんでくれて、私はそれが一番嬉しいわ」
馬車に乗ってもなお興奮冷めやらぬオリビアの嬉々とした様子に、シオンは読みかけの本を閉じながら静かに苦笑をこぼす。恐らく彼女が言っているのは、悪女の罠にかかり窮地に陥ったヒロインを、身の危険を顧みず駆けつけた主人公が既の所で救い出すという、物語の中に幾つかある山場のうちの一つだろう。あのシーンは確かに、多くの観客の心を高鳴らせたことだろう。それまで秘めていた互いの本心を素直に打ち明け、熱く抱擁を交わす二人の感動的な姿も相まって。
その後ヒロインを手にかけようとした罪で悪女は捕らえられ、彼女の裏に隠れていた黒幕と主人公が一騎打ちをするものの、所詮一介の貴族でしかない黒幕が、王国一番の剣聖である主人公に勝てるはずもなく。仲間の死を目にして自暴自棄となった悪女は、国王からの裁きを受け、狂乱のまま断頭台送りとなる。引っ立てられる最中も、彼女はただひたすら叫び続けていた。どうして私ではないの、と。空気を裂くような悲痛な声で。どうして私を愛してくれないの、と。何度も、何度も。
――“愛”とはなんと恐ろしいものでしょう。
執行を見守る群衆に紛れ込んだ語り部の、諦念を滲ませた低い声が脳裏を過る。
――“愛”はただそれだけで、人の心を善にも悪にも導くのですから。
愛によって救われたヒロインと、愛によって滅んだ悪女。二人の結末を比べれば、確かに“愛”というものは善くも悪くも恐ろしく厄介なものだ、と、窓の外を眺め遣りながらシオンは小さく息をつく。“愛”とは、ある意味で猛毒なのかもしれない。
屋敷に着くと、執事長のヴィクターが幾人かのメイドを連れて玄関口に立っていた。フットマンによってキャビンの扉が丁寧に開かれ、差し出された手をとって、シオンはゆっくりとステップを降りる。春を迎えたとはいえ、頬を撫でる風はまだ幾分冷たい。屋敷の入口を飾るウィステリアが盛を迎えるには、まだ少し時間がかかるだろう。
「エミリーはもう来ているかしら?」
「ええ、予定通りにお見えです」
「そう。ありがとう」
肩から滑り落ちた厚手のショールを羽織り直しながら、シオンは先をゆくヴィクターの後に続いて屋敷の中に足を踏み入れる。扉を潜ってすぐに広がるエントランスでは、愛犬のジョンが、大きな体を丸めて眠っていた。メイドにたっぷりと遊んでもらったのか、その寝顔は随分と満足げで愛らしい。
「歌劇の方はいかがでしたか」
「とても素晴らしかったわ。オリビアの興奮も、暫く収まらないでしょうね」
赤い絨毯の敷き詰められた廊下を進みながら、ヴィクターはふふっと、老紳士特有の朗らかな笑みをこぼす。
「お二方がご満足されたようで、何よりです」
そう言いながら応接室の扉の前で足を止め、ヴィクターは洗練された仕草で扉を三度ノックする。すぐに中から小さな声が戻り、彼は一度肩越しに目配せをしてから、ゆっくりと扉を押し開く。さすがは公爵家で長年執事長を務める男だ。ヴィクターの行動には少しの無駄もない。
微かに花の香りが漂う室内は、大きな窓から燦々と射し込む陽光に照らされて、まるで真昼のようにまばゆくあたたかい。一面に敷き詰められたヘラティー文様の絨毯、アカンサスに縁取られた楕円形の鏡、大理石で造られたマントルシェルフ、猫足のゲリドンの上にたっぷりと飾られた色鮮やかなチューリップ。
部屋の中央には横長の白いテーブルを間に挟むようにして二台のソファが置かれ、その片方には、ブロンズ色の髪の毛を三つ編みにした少女がひとり、緊張した面持ちでちょこんと座っていた。
「ごめんなさい、エミリー。遅くなってしまって」
「い、いえ! とんでもございません!」
声をかけるや否や、少女――エミリーは弾けたように飛び上がり、あどけなさの残る小さな顔いっぱいに笑みを咲かせ、深々とお辞儀する。知り合ってもう随分と長い時間が過ぎたけれど、彼女の純真さはいつまで経っても変わらない。
「お会い出来て嬉しいです、お嬢様」
「私もよ、エミリー」
羽織っていたショールをヴィクターに預け、シオンはエミリーと向かい合う形でゆったりとソファに腰掛ける。テーブルの上には飲みかけの紅茶と、クッキーやマカロンの並んだガラス製のケーキスタンド。彼女の好物を選んで盛り付けているようだが、緊張のせいか、どうやらまだ手をつけていないらしい。
――エミリー・モレッソ。齢十七となる彼女は、シオンが個人名義で支援をする孤児院の出身で、今は王都の中心部にある仕立て屋で針子見習いとして働いている。利発で何事にも真面目に取り組む彼女は、その明るく穏やかな性格も相まって、先輩達にも随分と可愛がられているそうだ。
「お嬢様からご依頼いただいたドレスについて、幾つか案をお持ちしました」
そう言いながら分厚いノートを差し出すエミリーの、きらきらと輝くヘーゼル色の瞳を見つめながら、シオンはふふっと顔を綻ばす。
「ありがとう。見ても良いかしら?」
「もちろんです!」
ワゴンを押して部屋に入ってきたオリビアが、手際よく新しい紅茶を淹れて、エミリーの前に置かれたままのぬるいカップと入れ替える。
「随分と沢山考えたのね」
「お嬢様にはどんなドレスが似合うだろう……って考え始めたら、どうしても筆がとまらなくなってしまって」
気恥ずかしそうにはにかむエミリーに苦笑しつつ、シオンは事細かにたっぷりと書き込まれたページを、一枚一枚丁寧に捲ってゆく。夜空に星を鏤めたような濃紺のドレス、タイトなシルエットの美しいドレス、他国の民族衣装からインスパイアを受けた華やかなドレス。
当主の誕生日を祝うパーティーで身につけるドレスを仕立てるつもりだったのだが、彼女の描くドレスはどれも魅力的で、これではひとつに絞れそうにない。
「貴女は本当に凄いわね」
「そ、そんなことありません! お嬢様の方がもっと凄いです!」
お菓子と紅茶を堪能しながらドレスに関する意見交換をしているうちに、気付けば部屋に射し込む日差しが随分と赤く染まっていた。
シオンは馬車の用意をするようオリビアに指示を出し、エミリーの想いが詰まった分厚いノートをゆっくりと閉じる。妹のように可愛い彼女とは、もっと話をしていたいけれど。しかし、昨今の事情を鑑みると、早めに帰宅させるに越したことはない。
「あの、一人で帰れるので、馬車は……」
「駄目よ。近頃の王都は、何かと物騒だもの。家の前まで、ちゃんと送り届けさせてちょうだい」
申し訳無さそうに眉尻を下げるエミリーに優しく笑みを返しつつ、シオンは抱えていたノートを差し出して徐ろに立ち上がる。きっとこの中に描かれた何着かを、彼女の手で仕立ててもらうことになるだろう。それを身に着けた時に思いを馳せると、どうしても笑みが深まってしかたなかった。
「ドレスが仕上がるのを楽しみにしているわ、エミリー」