第四話 白髪金眼の男
人気のない廊下を進むと、目的の扉の前に長駆の男が一人立っていた。ホワイエで見た給仕係と同じ黒服を身に纏い、胸元には劇場公認を示す銀バッジを輝かせ、如何にも使用人然とした佇まいで訪問者を見下ろす彼は、しかし、四肢にたっぷりとついた猛々しい隆起を全く以て隠せていない。そもそも立ち方からして一般人のそれではないのだけれど、たったひとときの為だけに、骨の髄にまで染み付いた癖を解くのは、いくら熟練の兵士といえど――寧ろそうであるからこそ――難しいのだろう。
目配せひとつで意を察したのか、男は一言も言葉を口にすることなく、扉を三度ノックするだけで、内側の人間に来訪者を告げる。飴色の扉に取り付けられた真鍮製のプレートには、部屋番号を示す二十の文字。ご丁寧にも両側の部屋はクローズのようで、眼前の部屋以外で人の気配はまるでない。
ひとつ間を置いて、艷やかに磨き上げられた扉がゆっくりと開く。途端に、オーケストラの奏でる美しいメロディが僅かに出来た暗闇から忽ち溢れ出し、透明感のある歌声が鼓膜を優しく震わせる。恐らくはヒロインと主人公による、尊く麗しい愛の歌だろう。妖精が花畑を飛び回るようなフルートの陽気な音色によって、手を握り合い愛おしそうに微笑み合う二人の姿が容易に想像出来る。
けれどもシオンの眼の前にあるのは、そんな暖かな光景などでは無論ない。そこにあるのは、至極冷静な――冷淡、とも表現できるような――エメラルド色の瞳だった。一つに結わえて左肩に流された、サンドベージュ色の髪。右目の下に一つだけある、小さな泣き黒子。淡く色づいた、形の良い薄い唇。女と見紛うほど端麗な色白の顔には、しかし僅かばかりの笑みもない。
ベレスフォード公爵家子息、アデル・ベレスフォード。社交界きっての美男子であり、第三聖騎士団に所属する若き俊英としても名高い彼は――王太子の最側近として知らぬ者はいない。
「……どうぞ、中へ」
扉の前から一歩退き、人ひとり通れる分だけスペースを空けた彼に目だけで会釈をし、シオンは悠然とした歩みで室内に足を踏み入れる。真紅の別珍が敷き詰められた床、同色の素材に繊細な金刺繍の施された壁。簡易的なクロークも兼ねる手前側には渦巻装飾の美しいシェーズロングが一台置かれ、仕切り用のカーテンの奥には、歌劇を観覧する為に置かれた四台の椅子。
その一つに、男が一人が座っていた。真紅によく映える白い髪の毛、優雅に組まれた長い脚。肘掛けにつまらなさそうに頬杖をついていた男は、声をかけるよりも先に敏感に人の気配を――或いは視線を――察して、ゆっくりと振り返りながら立ち上がる。その動きに合わせるように、ヴァイオリンの優美な音色がふわりと花開く。まるで主人公の登場を華々しく告げるかのように。
――アデルが出迎えた時点で、そこにいる男が誰であるのかなど、考えるまでもない。
「悪いな。突然呼び出して」
口ではそう言いつつ、その実全く申し訳無さの欠片も感じられない黄金の瞳を見つめながら、シオンは胸の奥底で深々と溜息をつく。呆れ、嫌悪、苛立ち、諦め――。数えればきりがないほどの幾つもの小さな波が、身体のそこここでぶつかり合い、絶え間なく騒めいている。まるでシトリンのように美しい金色の瞳を見つめれば見つめるほど。不快でたまらなかった。その全てが。吐き気を催しそうなほど、忌まわしくてしかたない。
しかし演ずることに慣れた身体は、そんな心中などまるで気にも留めず、別の意思を持った生き物のように勝手に動いてゆく。流れるようにするすると、寸分の乱れもなく自然に。左足を引き、ドレスの裾を摘み、淑やかに膝を曲げ。恭しく一礼するその顔にはもちろん、精巧に出来た贋物の笑みも抜かりなく貼り付けて。
「いいえ、どうかお気になさらず。お会い出来て光栄ですわ――王太子殿下」
ルヴェナビス王国王太子、ノア・ヴェルティアス。
齢二十二にして聖騎士団のトップに立ち、膨大な魔力と類稀な魔法のセンスから戦場では唯一無二の強さを誇る、王国の若き太陽。真珠のように艷やかな白い髪の毛と、凛々しい切れ長の目の中心で輝く金色の大きな瞳は、王家に産まれた者にのみ許された貴いものであり、彼が王族の一員であることの何よりの証左だ。伝説によれば、その特徴は英雄王ガリアンにまで遡るという。
「なるほど。……君は役者向きということか」
くつくつと笑いながら観覧席を離れ、気怠げにシェーズロングに腰掛ける様さえ、嫌味なほど絵になる男だ。すっと通った鼻筋も、形の良い輪郭も、くっきりと隆起した喉仏も、端麗な顔貌に比して男らしく逞しい体躯も、何もかも。
「ところで、私に何かご用件でも?」
観覧席とを区切るカーテンを、アデルが僅かな音すら立てることなくぴたりと閉め切る。その姿を視界の端に認め、シオンは少しばかり濃くなった暗闇の中で、話題を急くようにそっと笑みを深めた。舞台照明の閉ざされた真紅の室内で、それでもノアの金眼は煌々と輝いているように見える。月下に潜む白雷の虎か、或いは、蒼穹を支配する孤高の鷹か。彼の美しさをそう表現したのは、果たして誰だったのだろう。言いえて妙な喩えだ、と、シオンは半ば呆れつつそう思いながら、長く濃い睫毛に囲われた金色をじっと見つめる。
「昨今王都を騒がせている事件を、君は知っているか?」
「……ええ、まあ。あれほどの事件ですから、知らぬ者はいませんでしょう」
敢えて“何”とは明言されなかったものの、ノアの指す事件が、数ヶ月前から続く連続殺人事件であることは考えるまでもない。つい先日も、宮廷舞踏会の場で子爵家の令嬢が毒殺されたばかりだ。今朝の新聞は、その話題で持ち切りだった。あれほど大々的に取り扱っていれば、事件のことを知らぬ者など王都には誰ひとりとしていまい。
「ならば話は早い」
そう言って、ノアは長い脚を組みながら、真紅の背凭れにゆったりと寄りかかる。その顔には、まるで悪巧みを企てる子どものような、それでいて底知れぬ妖しさを孕んだ笑みが浮かんでいた。彫刻のように整った唇の端を、にやりと引き上げて。
「――この事件の解決に、君の力を貸してくれないか」