第三話 王立劇場と赤ワイン
「嗚呼、どうして私のことを見てくれないの! 私はこんなにも貴方のことを愛しているというのに!」
悲哀に満ちた声が、しんと静まる劇場内に切なく響き渡る。苦しいほど愛しているのに。狂おしいほど愛しているのに。けれども決して実を結ぶことのない、虚しく悲しい想い。そんな彼女に寄り添うように、ヴァイオリンの優しい音色が、沈んだ空気をしっとりと包み込む。どうして。どうして。どうして。女は何度もそう叫び、ベッドに顔を伏して泣き喚く。どうして。どうして。どうして私ではないの。どうして。
どうしてあの女なの――。
王国で最も人気の高い戯曲家であるラヴィエールは、男女の熱い恋愛を軸とした話を得意とすることで知られている。話中に恋敵が登場するのは無論つきもので、それをスパイスにストーリーをより刺激的に、よりロマンチックに纏め上げる術に長けた彼は、“恋の魔術師”などという二つ名まであるほどだ。幾つもの苦難を乗り越え、真実の愛を掴み取るヒロインと主人公の“感情の成長”は、スパイス――悪役や困難――があるからこそ多くの感動を集め、観る者全てを虜にして離さない。そういった要素を過不足なく緻密に編み込んでストーリーを組み立てる技術は、ある種の“マジック”と謳われ、批評家からも高く――それはもう、惜しみないほどの賛辞とともに――評価されている。故に“稀代の戯曲家”として名を馳せる彼のファンは、昨今他国でも急激に数を増やしているそうだ。
そんなラヴィエールの上手いところは、なにもストーリー構成だけではない。彼の書く戯曲が観る者の心を掴むのは、悪役を完全な悪役として描かないところにも理由がある。ヒロインをいじめ、時には毒殺を謀ってまでヒロインと主人公の恋路を邪魔しようとする悪役は物語の“お約束”であるが、そんな悪役にも心があるのだということを、彼はしっかりと丁寧に、そして思わず感情移入してしまうほど繊細に描くのだ。より人間らしく、より情緒的に。
「いったいどうすれば、貴方は私のことを見てくれるのかしら……」
頭を抱えて悲嘆に暮れる女優から目を逸らし、シオンは隣の椅子に腰掛けるオリビアの、薄闇に包まれた横顔をそっと盗み見る。元々歌劇が好きな彼女であるが、取り分けラヴィエールについては心酔といっても過言ではないほどの大ファンであり、戯曲が書籍化されればどんなに薄っぺらなものでもくまなく買い集めるほどの熱中ぶりだ。王立劇場のボックス席を、シオン・アルヴェンヌの名のもと一室所有しているのも全ては歌劇好きのオリビアの為であり、それ故ここには彼女以外誰も――たとえ大事な“仕事相手”であろうとも――足を踏み入れさせたことはない。
悪役の嘆きを聞きながら、ハンカチを片手に時折鼻を啜るオリビアの様子にふっと小さな笑みを漏らしつつ、シオンはゆっくりと瞳を動かして、豪奢なプロセニアムアーチに囲われた大きな舞台へと視線を戻す。舞台袖から足早に出てきたメイドが、ベッドに顔を伏せる悪女の傍に寄り添い、まるで子守唄のように優しいアリアを高らかに歌いながら、主人のか細い肩を優しく抱き寄せる。大丈夫、貴女様は誰より美しい。大丈夫、貴女様は誰より気高く麗しい。
大丈夫、誰もが貴女様を尊ぶでしょう。大丈夫、誰もが貴女様を愛するでしょう――。
***
「――本当に良いのですか」
靴音だけが響く静かな通路を歩みながら、男は背後から投げかけられた言葉に、くすりと小さく笑う。側近として長く仕える彼の心配性は、幼少の頃から少しも変わらない。生い立ち故に、何事も一歩先を案ずるのは理解出来ないわけではないけれど。しかしその様はいつ見ても、小言の多い乳母にそっくりだ。
「“アルヴェンヌの女狐”と社交界で呼ばれているような女ですよ」
「ははっ。良い二つ名じゃないか」
「何を言っているんですか。笑うところではありません」
真鍮のプレートが取り付けられた飴色の扉の前で足を止め、男は肩越しに後ろへ目を向けながら、挑発的にニヤリと口角を持ち上げる。
「見えぬものを探るのに、狐は寧ろ好都合だ」
そう告げた男の、どこか愉快そうに細められた目元をじっと見つめ、長年の従者はやれやれと呆れたように両肩を竦める。こうなればもう何を言っても男が意思を曲げないことを、彼は長年の経験からよく理解していた。
「ちゃんと忠告はしましたからね」
深々と吐き出された重たい溜息は、男の開いた扉の奥から流れる濃厚なアリアによって、誰の耳に届くこともなく静かに消えていった。
***
――今朝、死体で見つかった。
観劇の最中も決して頭を離れることのなかった言葉が、シリルの声を伴って、鼓膜の裏をぐるぐると回っている。執拗に、まるで刻みつけるかのように、何度も何度も。ぐるぐる、ぐるぐる、と。
――フロストバイトによる毒殺だ。
そっと息を吐き出しながら、シオンは窓際の壁にゆるく寄りかかり、大勢の観客で賑わう大休憩室をなんとはなしに眺め遣る。椅子に腰掛け談笑を楽しむ老夫婦、侍女から受け取ったシャンパンを嗜む妙齢の令嬢、アルコールや軽食を配る給仕係、賭博台の置かれた別室に連れ立って向かってゆく紳士達。
幕間の休憩用に設けられたホワイエは、王立劇場に数多ある部屋の中で最も豪奢な場所だと称されるほど華やかで美しい。大通りに面して造られた大きなアーチ窓の向かい側には同様の形をした鏡が均等に配され、その合間には、有名画家の手によって描かれた宗教画や、人気歌劇作品のワンシーンを緻密に掘ったレリーフが、所狭しと並べられている。頭上には建国神話の代表的な一節である、女神エリシエル降臨を描いた荘厳な天井画。女神の前には初代国王である英雄王ガリアンが跪き、彼の後ろには四大貴族の始祖とされる四人の騎士が恭しく頭を垂れている。
――いいか、シオン。この件には絶対に深入りするな。
兄の忠告を反芻しながら、シオンはゆっくりと瞬いて、再び小さな溜息をつく。彼の心配はなくとも、“仕事”でもないこの件に関して、深く足を踏み入れるつもりは毛頭なかった。調査は聖騎士団の精鋭部隊が、昼夜問わず懸命に行っている。その上、先日の件によって王室からの目も強まっているそうであるから、部隊もより力を入れるであろうし、そうなれば神出鬼没の犯人でもそう長くは逃げられまい。
とはいえ、数ヶ月もの間手掛かり一つ残さず逃亡を続ける人間を捕らえるのは、そう簡単なことではないだろうけれど。そう思いながら、頬にかかる横髪を右耳にかけ、人の行き来の激しい出入り口に目を向けた――その時だった。妖しく光る、セピア色の瞳とかち合ったのは。
王立劇場の給仕係専用に配られる黒服を纏ったその人は、シオンと視線が交わったことを認めると、人集りの細い隙間をすうっと縫うようにして、音もなく歩み寄ってくる。右手には銀色のトレイと、赤ワインが注がれた小ぶりなグラス。ぴんと張った黒襟に取り付けられた銀バッジ――劇場公認の給仕係であることの証――が、大窓から差し込む陽光を浴びて、きらりと小さな輝きを放っている。
「お嬢様、お飲み物はいかがでしょうか。二十年ものの赤ワインをご用意しておりますよ」
眼前で足を止めた給仕係の、にっこりと細められた目を注意深く凝視する。一見爽やかで人当たりのよい笑みをしているが、その実、精巧に造られた仮面のように乾いて冷たく、まるで中身がない。
しかし結局はそれも、所詮は造られたまやかしに過ぎないのだ、と。給仕係の双眸から目を逸らし、トレイに載せられた赤ワインを見つめながらシオンは思う。彼らのような人間は、裏を隠す為に用心深く何重もの壁を作る。それがある意味、自分自身を護る術であり、砦にも成り得ることをよくよく――身を以て――知っているからだ。
「あら、珍しいわね」
「ええ。大変貴重なヴィンテージでございますから、特別なお客様にしかお出ししておりません」
随分うまく溶け込んだものだ、と内心で感心しつつ、シオンはふっと顔を綻ばせ、差し出されたグラスを受け取る。恐らく中身は本物だろう。とはいえ飲む気には、到底なれないけれど。
「ありがたく頂くわ。……オーナーに、そう伝えてちょうだい」