第二話 給仕係の男
「昨日の舞踏会は本当に残念でしたね、お嬢様」
豚毛のヘアーブラシで丁寧に髪の毛を梳きながら至極残念そうに眉尻を下げるオリビアに、シオンは薄く苦笑をこぼして手元の新聞に目を落とす。宮廷舞踏会、毒殺、死の乱舞。いったい誰が意図して作り上げたものなのか。少し読み進めるだけでも、そこには幾つもの刺激的な言葉たちがセンセーショナルに鏤められ、シオンは小さく溜息をつく。情報を得るのに“新聞”という媒体は便利なものだが、人々の関心を煽るためだけに作られた文章には、どうしても辟易としてしまう。
「大事な“神恩祈念祭”の日に、あんな事件が起こるだなんて」
「……街の様子はどう?」
「そりゃあもう、大騒ぎですよ! みんな不安がってます。聖女様のお祈りに影響がないといいんだけど、って」
王室主催の宮廷舞踏会で起きた事件は、会場に集まっていた多くの人々の口を塞ぐ術もなく、翌日の朝には各紙のトップを大々的に飾っていた。
死亡したのはリシュモン子爵家の一人娘である、カトリーヌ・リシュモン。聖騎士団の調査によれば、死因は毒を飲んだことによる心不全のようで、その裏付けとして、彼女が喫茶ルームで口をつけたと思しきチェリー酒の飲み残しからは、猛毒として知られる成分“フロストバイト”が検出されたという。フロストバイトは、ほんの僅か摂取しただけでも助かる術はないと言われるほどの劇物だ。ホールにまろび出た時にはもう、彼女は既に手遅れだったのだろう。
しかしただそれだけでは、ありふれた毒殺事件のひとつに過ぎない、と。読み終えたばかりの新聞を折り畳んで化粧台の上に置きながら、シオンは僅かに眉根を寄せる。“相続の粉薬”や“死の処方箋”なるものが重宝される諍いだらけの王侯貴族の世界で、暗殺というのは決して珍しいものではない。故に、王族の暗殺事件でもない限り、各紙のトップに、それどころか数ページにも渡って載せるほど大々的に扱われることは殆ど無い。載ったとしても、紙面の端に少しだけというのが常だ。
そうであるというのに、この事件がこんなにも巷を騒がせているのは、年に一度の“神恩祈念祭”――聖女が女神に祈りを捧げる祝祭――という大事な日に、その締め括りである王室主催の宮廷舞踏会で起きた事件であることにくわえ、
「しかも、遂に五人目の犠牲者が出てしまったわけですから……私だって怖いです」
――カトリーヌ嬢が、今最も王都で注目を集めている、とある連続殺人事件の五人目の犠牲者として認定されたからであった。
事件の発端は、昨年の冬にまで遡る。一人目の犠牲者は、宮廷に仕える若い侍女だった。彼女は、夕食の片付けを終えて自室に下がる姿を目撃されて以降行方不明となり、その二日後の早朝、庭園の中央に設えられたこぶりな噴水の中で見つかった。当初は水死と目されていたが、解剖の結果、死後水中に遺棄されたことが判明。自殺の線が消えたことにより、他殺として捜査が進められることとなったが――それから一週間後、街の一角で、二人目の犠牲者が発見されることとなる。
初動の段階では、二つの殺人事件は全く別のものとして考えられていた。二人の間には、何の関係性もなかったからである。しかしその考えは、二人目の犠牲者――街の小劇場で活動していた無名の女優――の体内から微量の“フロストバイト”が検出されたことにより、打ち砕かれることとなった。何故ならば一人目の犠牲者である侍女からも、猛毒である“フロストバイト”が検出されていたからである。“フロストバイト”は他の毒と違い、手軽に入手出来るような代物ではない。原料である“ノクスベイン”という蔓植物の花から成分を抽出し生成する技術が、非常に難しいのである。故に暗殺では滅多に用いられることはないとされている――はず、だった。
“フロストバイト”という線によって繋がった二つの事件は、今も尚調査団を苦しめ続け、未だに犯人の見当すらついていない。そんな彼らをまるで嘲笑うかのように、犯人は次から次へと、何の罪もない人々を手にかけていっている。
「さあ、出来ましたよ、お嬢様! 今日も凄く素敵です!」
いつの間にか伏せていた顔を上げると、綺麗に磨き込まれた鏡に越しに、背後に立つオリビアと目が合った。丁寧に結わえられたキャラメル色の髪の毛、まるで子どものようにきらきらと輝くオリーブグリーンのつぶらな瞳。ぷっくりとした淡色の頬は赤子のそれのように柔らかく、薄い唇はリップを付けていないにも関わらずとても血色が良い。齢二十三を迎える彼女だが、その愛らしい容貌はいつ見ても幼さを感じさせる。
「もっとシンプルで良かったのだけど」
「そんなの駄目ですよ。舞踏会じゃないとはいえ、ちゃんとしたお出かけなんですから」
ムッと唇を尖らせながら眉根を寄せる彼女に苦笑をこぼしつつ、シオンはゆっくりと腰を上げ、燦々と降り注ぐ陽光で明るく照らされた窓辺へと足を向ける。外は雲ひとつない快晴だ。眼下に広がる庭園では、老齢の庭師が若い弟子とともに薔薇の手入れに励んでいる。
「オリビアも支度をしていらっしゃい。もうすぐ迎えが来るわ」
「あっ、そうですね。急いで着替えて参ります!」
慌ただしく部屋を出てゆくオリビアの足音を背中で受け止めながら、シオンは小さく息を吐き、それから徐ろに目を閉じる。瞼の裏の暗闇には今も、ホールで見かけたあの給仕係の、卑しく歪んだ唇が鮮明に焼き付いて離れない。――あの男は確かに、嗤っていた。毒に苦しんだ果に息絶えたカトリーヌを見て。恐怖に慄く人々を眺めて。ほんの微かに口角を上げて。あの男は確かに、嗤っていた。
あの後ホールを出ていった彼を密かに尾行してみたが、証拠となるようなものは、結局ひとつも見つけられなかった。誰かと会うなどしていれば手掛かりにでもなっただろうけれど、しかし彼は、使用人に与えられた大共同棟に入って以降、ついぞ姿を見せることはなかった。
単独での犯行か、それとも別に黒幕がいるのか。もし後者であるならば、大共同棟のどこかで密会も十分に有り得るだろう――と、そんな考えが頭を過った時だった。唐突に部屋の扉が控えめに叩かれ、シオンはハッと我に戻って振り返る。てっきりオリビアが戻ってきたのかと思ったが、少し間を置いてゆっくりと開いた扉から姿を現したのは、聖騎士団の制服を身に着けた兄――アルヴェンヌ公爵家の長男である、シリル・アルヴェンヌであった。
「なんだ、出かけるのか?」
「ええ。ラヴィエールの最新作を観に行こうと思いまして」
「相変わらず人気だな、奴は。母上も観たがっていたぞ」
「仕方ありませんわ。彼は稀代の戯曲家ですもの」
執事が扉を閉めるのを横目で確かめ、シリルは咳払いする。それは彼の、話題を切り替える時にする癖のひとつだ。
「……実は、お前が昨日言っていた給仕係の男のことで話があるんだが」
「見つかったのですか?」
「いや、その……なんというか。見つかったといえば、まあ、見つかったんだが」
「あら。含みのある言い方ですわね」
言いにくそうに視線を彷徨わせ、シリルは深々と溜息をつく。諦めとも苦渋ともつかない、重苦しい吐息。彼は暫くの間目を伏せた後、もう一度溜息をつくと、ゆっくりと持ち上げた視線で、シオンの双眸を真っ直ぐに捉えた。
「今朝、死体で見つかった。――フロストバイトによる毒殺だ」