第一話 宮廷舞踏会、そして
「実は私、先日ラヴィエールの最新作を観劇したの」
「あら、羨ましい。とても人気なのでしょう?」
「ええ、もちろん。彼の書く戯曲は、どれもロマンチックで素敵ですもの」
豪奢なシャンデリアの下で、色とりどりの幾つもの華が、柔らかなフリルの裾を優雅に靡かせながら舞っている。妖艶で重厚感のあるワルツにあわせ、ひとときの甘美に酔い痴れる男女が手と手を取り合って。この時だけは誰も彼もが、まるでスポットライトを浴びた主役のように煌々と微笑み、蝶の如くホール中を軽やかに、可憐に飛び回る。
「今回はどんなお話なの?」
「深窓のご令嬢と若い騎士が、身分違いの恋に燃えるお話よ。意地悪な悪女も出てきて、大変な事件に巻き込まれるのだけど――ふふっ、あとは観てのお楽しみ」
金装飾の施された大理石の柱身にそっと寄りかかり、給仕係から受け取ったばかりのシャンパングラスに唇を寄せる。“美しいものには毒がある”とはよく言ったもので、きらびやかに飾り立てられた眼下は、どこもかしこも戦場だ。社交界というのは総じてそういうものであるけれども、年に数度しか催されない王室主催の宮廷舞踏会となれば、尚の事。金、結婚、昇進、エトセトラ。すぐにでも剥がれてしまいそうなほど薄っぺらな建前を顔に貼り付け、その裏側では皆一様に、腹の底に隠した本音を滾らせている。
――華やかに舞うのは蝶の羽か、或いは悪魔のそれか。
「あら、こんなところにいたの?」
不意に声をかけられ、シオンはグラスを弄んでいた手をはたととめて、気配のする方へゆっくりと顔を向ける。
そこに立っていたのは、ローズピンクの愛らしいドレスを身に纏った一人の女性だった。花や宝石で飾られたブロンドの髪の毛、濃く長い睫毛に縁取られたコバルトブルーの瞳。細部に至るまでたっぷり施された刺繍と、ふんだんにフリルをあしらったドレスはとても美しく、大きく膨らんだジゴ袖と豊かなスカートで描かれたシルエットは、ただでさえ細い腰をより細く、華奢に見せている。
王都一と謳われる仕立て屋“メゾン・ベラヴァンス”で編み出された最新スタイルを、まるで元からあったもの――彼女自身の生まれ持った一部――のように着こなす様は、流石は社交界きってのトレンドセッターである。そう感嘆しつつ、シオンは女性の澄んだ碧い瞳を真っ直ぐに見つめながらやんわりと微笑んだ。彼女の大きくて丸い瞳は、いつ見ても、まるで陽光を浴びて輝く宝石のように美しい。
「どうせまたダンスそっちのけで、大好きな人間観察でもしていたのでしょう?」
「ただ気分転換をしていただけよ。下は人が多くて窮屈だもの」
「ふうん、そう。……まあ、そういうことにしておいてあげるわ」
そう言って、彼女――オルブライト公爵家令嬢、セシリア・オルブライトは不満げに白い頬を膨らませ、ぷっくりとした淡色の唇をつんと尖らせた。
「本当に貴女って、仕事以外に興味がないのね」
「あら、舞踏会なんてそういうものでしょう?」
微笑を湛えたままシオンはちらと目を逸らし、セシリアのほっそりとした肩越しに、少しばかり離れたところでひそひそと顔を寄せ合う二人の淑女に視線を据える。派手に絵付けされた扇を広げているせいで、表情の殆どを見ることは出来ないけれど。しかし、逃げるように慌ただしく逸らされた目元が、彼女達の心中を如実に表していた。
「何言ってるの。舞踏会はダンスを楽しんでこそよ」
そういえば侍女のオリビアもラヴィエールの最新作を大層観たがっていたことを頭の片隅に思い出しつつ、シオンはゆっくりとひとつ瞬いて、手元のシャンパングラスにそっと視線を落とす。
――と、その時だった。クライマックスに向け壮大さを増してゆく旋律の中に、小さな悲鳴のような何かが紛れ込んだような気がして、シオンはふと階下へ目を向ける。ホールいっぱいに広がる幾つものきらびやかなドレス、壁際で談笑をする人々の輪、踊るように振られるタクトに合わせて弦を引く奏者。
「ちょっと、どうしたの? そんなにホールを凝視しちゃって。もしかして、気になる殿方でも見つけた?」
「まさか。ただ、少しだけ――」
何もかもが完璧に作り上げられた、豪華絢爛の世界。壁の至る所に飾られた絵画よりも華々しく煌々としたその場所に、緩みなどひとつもないはずだった。
けれどもそんな場所に、小さな罅が音もなく唐突に入り込む。はじまりは、喫茶ルームへと繋がる扉の前だった。人混みの間を縫うようにふらふらと進むその罅は、やがてダンスを楽しむ人々の傍らへと抜け出ると、寸分の狂いなくきっちりと整えられた舞踏の空間へ躊躇いなく迷い込んでゆく。手を取る相手などいないまま。そこから遂に、全てがじわじわと崩れてゆくのが、容易に感じ取れた。綻びは徐々に波を広げ、所々で小さな悲鳴があがる。
いったい何事だ、と、しかしそう叫ぶ者は、何故か誰もいなかった。皆一様に、その罅を――ひとりの女性を、ただただ呆然と見つめているだけ。右へ、左へ、くるりと回って、ゆらりゆらり。そうやってホールの中央へと向かってゆく彼女の姿は、まるで踊っているようだった。優雅で美しい、それでいて緊張感のあるドラマティックなメロディにのって。ベビーブルーの裾を、ふわりふわりと靡かせて。
クライマックスへと一気に駆け上ろうとする強烈な音色が、大理石造りのホールいっぱいに響き渡った、その瞬間。金管楽器の奏でる甲高い音に弾かれたようにして、女性が勢いよく顔を上げた。化粧のせいとは思えないほど青白くくすんだ、まるで病人のような顔を。豊かな睫毛に縁取られた切れ長の目を、天を、或いはそこにある何かを睨みつけるように、カッと見開いて。
その一瞬でさえ、声を上げる者はひとりもいなかった。誰も彼もが呆然と立ち尽くし、ゆっくりと後ろへ倒れてゆく彼女を眺めているだけ。スローモーションのような世界に、全てが縫い止められていた。唯一、重厚で壮大なワルツだけが、いつもと変わらぬ調子で劇的なメロディを響かせている。
まるで彼女の最期を美しく彩るかのように。
しかしその世界も、どさりと音を立てて女性が床に伏した刹那、どこからともなく上がったけたたましい悲鳴によって、瞬く間に弾け飛んだ。
怒声を轟かせながら駆け寄る聖騎士団と、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う男女で、その場は混乱のどん底だった。第二聖騎士団の団長であるベレスフォード公爵が統制をとろうとするも、右往左往する人々の波は少しも鎮まらない。“眼の前で人が死んだ”というショッキングな出来事に錯乱する人間を操るのは、いくら指揮に長けた者であろうとひどく難しいものだ。それが、戦場などとは全く以て無縁の生活を送っている人間達の集まりであれば、尚の事。
仕方なく応援を呼ぼうとするベレスフォード公爵から目を逸らし、シオンは太い手摺の上にシャンパングラスを置きながら、だだっ広いホールの隅から隅へと注意深く視線を走らせる。給仕係が屯する喫茶ルームの入口、レリーフや絵画が所狭しと飾られた壁際、宮廷楽団専用のオーケストラボックス、真紅のカーペットが敷かれた階段。
「な、によ……これ。どういうことなの」
驚きのあまり顔を引き攣らせるセシリアの横で、シオンはある一角にぴたりと目をとめる。
異変は、ホールの一番目立たぬところに設えられた、給仕係専用のシンプルな扉の前にあった。それはほんの些細な、ともすると見落としてしまいそうなほど小さな、僅かばかりの違和感でしかなかったけれど。
糊の効いた黒服と、整髪料できっちりと撫でつけられた黒髪。一見ごく普通の、どこにでもいるただの給仕係の男性だ。彼の数歩隣にいる別の給仕係と比べても、その身なりには何の差もない。
しかし彼は、違っていた。違っているように見えた。他の給仕係だけでなく、このホールにいるどの人間とも。明らかに彼だけが、その全てと違っていた。
「……先に行くわ」
「えっ、ちょっ、ちょっと! 何処に行くのよ、こんな状況で!」
慌てるセシリアの声を背に、シオンは給仕係の男性に視線を据えたまま、階段へ向かって足を踏み出す。
そんな彼女の行動をまるで察したかのように、男性は後ろ手にドアを開け、人ひとり通れるだけの薄い暗闇に、身体をそうっと沈めてゆく。目立たぬところにひっそりといる彼のことなど、誰も見ているはずがない。気に留めているわけがない。それをいいことに、どんどんと暗闇の中に消えてゆくその様を、シオンは僅かに目を細め、睨めつける。まるで周囲を賤しんでいるようだ、と思った。馬鹿な奴らだ、と、そう嘲笑っているようだ、とも。
「――見つけたわ」