表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/13

第十二話 悪夢

 炎が踊っている。赤々とした灼熱の炎が、そこここで。まるで狂った獣のようにゆらゆらと踊り、暴れ回っている。


 強く引かれた右手が、ひどく痛かった。掌に触れる皮膚はとても柔らかくて優しいのに、その手に込められた力は、今までに感じたことのないほど勁烈で。胸が苦しくてしかたない。焦げた臭いのせいで息苦しいのとはまた違う、ぎゅっ、と締め付けられるような苦しさ。

 走れば走るほど、目の端から涙が溢れてくる。次から次へと、とめどなく。しかしそれを拭ってくれる者は、もう誰もいない。気に留める者さえ、誰も。


「さあ、ここに入って」


 暗闇の中へ強引に押し込まれ、よろけた身体が倒れ込む。あんなにも頑なに、決して離すまいと力強く握られていた手は、そんな意思などまるでなかったかのように、容易に――冷淡に――離れて、闇の向こう側へ消えてゆこうとする。赤で埋め尽くされた、熱く、焦げ臭い世界へ。ただ一人で、どんどんと。

 たまらず腕を伸ばしてその手を追いかけるものの、背後から無理矢理抱き竦められ、爪の先が虚しく宙を切る。やめて、と叫んでも。嫌だ、と叫んでも。置いていかないで、と叫んでも。何度も何度も何度も、喉が切れそうになるくらい何度も必死に叫んでも。声は僅かも出てこない。口は開いているのに。言葉を発しているつもりなのに。それでも声は、それによって紡がれるはずの言葉たちは、少しも出てくることはなくて。


 差し込む赤い光がゆっくりと細まり、暗闇が少しずつ濃くなってゆく。世界を呑み込むみたいに、じわりじわりと。幾つも折り重なったたくさんの悲鳴と、焦げた肉の臭いと、踊り狂う炎と、慌ただしく駆けてくる無数の足音から隔絶するように。


「いつまでも愛しているわ、シオン」


 何故こんなことになってしまったのだろう。何故、どうして、こんなことに。どうして、どうして、どうして――。


 伸ばした指の先で、美しい黒い髪の毛がふわりと揺れた。烏の濡れ羽色のような、とても麗しい髪の毛が。大きな弧を描くようにして。

 やがて細い背中を覆ったそれの隙間から、鋭く尖った何かが顔を出す。炎よりももっと鮮やかな赤色を、たっぷりと滴らせながら。華奢な背中を覆っていた髪の毛が、淡色のドレスが、たちまち赤黒く染まってゆく。その光景に、息を呑んだ。冷たい空気が喉にぴったりと貼り付いて、痛くて痛くてたまらない。


 ゆっくりと、まるでスローモーションのように崩れてゆく身体を、暗闇の中からただ眺めていることしか出来なかった。恐ろしいのに。悲しいのに。それでも、細い光の向こう側に広がる残虐な光景から、どうしても目を背けることが出来ない。心臓が、どくどくと激しく鳴っている。その勢いに熱された血潮が身体中を巡っているけれど、しかし身体は、まるで氷漬けにでもされたようにひどく冷たい。皮膚も、細胞も、神経も、頭の髄も、何もかもが。


 それでも逸らすことの出来ない、涙でぐちゃぐちゃに歪んだ視界の中で、大きな黒い布がぶわりと靡いた。その存在を誇示するかのように、大仰な動きで。その布を纏った影は、床に倒れて微動だにしない細い身体から、鋭く尖った銀色の剣を何の躊躇いもなく引き抜く。


 刹那、堰き止められていた血飛沫が勢いよく上がった。赤い、赤い、恐ろしいほど鮮やかな、真っ赤な血が。淡色のドレスを汚し、美しい濡れ羽色の髪の毛を汚し、そうして黒いマントにも無数の爪痕を残す。黒く、大きな、悪魔のような布に。そこに描かれた精緻な紋章にも、べったりと。


 あれは――。吸い込んだ空気が喉に突き刺さり、呼吸をとめる。あの王冠は。あのクロスは。それを知らぬ者は、この国に誰ひとりとていないだろう。何故ならその紋章は、()()()()()()()()()――。



 唐突に目が覚めて、シオンは詰めていた息をゆっくりと吐き出す。そのままじっと、眼前に広がる薄闇を、そこに突き伸ばされた指先を見つめていた。乱れた呼吸と、激しく鼓動を打つ心臓が鎮まるまで。ただひたすら、じっとしていた。そうすることしか、出来なかった。


 強張っていた身体から力が抜けて漸く、シオンは汗で貼り付いた前髪をゆっくりと掻き上げ、そっと息をつく。最近は以前にも増して夢見が悪い。見たくないものほど、執拗に蘇ってくる。忘れたつもりも、忘れるつもりもないというのに。もっと奥深いところにまでくっきりと刻みつけるみたいに、何度も何度も。


 のっそりと身体を起こし、シオンは静かにベッドを降りて、水差しの置かれたサイドテーブルへふらふらと歩み寄る。足を動かしているのに、床を踏んでいる感覚が全くない。けれども宙を浮いているように軽いのかといえばそうではなく、喩えるなら底のない沼を歩いているような、そんな感覚だった。


 水差しの中にたっぷりと淹れられた水をグラスに注ぎ、それを一思いに飲み下してから、シオンは深く寄せた眉間を軽く、優しく揉んだ。頭の芯なのか、それとも目の奥なのか。兎角、頭のどこかがひどく疼いている。ずきずきと。あの恐ろしい夢を、まるでそこに刻みつけているみたいな、鈍い痛み。


 ゆっくりと吸い込んだ夜気を細く長く吐き出して、シオンはグラスを置く。そのまま手を動かして、テーブルの抽斗に取り付けられた真鍮の取手に指をかけて引くと、細長い箱の中から、本や筆に紛れて置かれたジュエリートレイが姿を現した。深い紫色のベルベット地をしたそれの上には、()()()()()()()()()()()()()()()


 ――いつまでも愛しているわ、シオン。


 あの時、暗闇の中に突き放した柔らかな手を、掴むことが出来ていたなら。縋りつき、引き留めることが出来ていたなら。

 今更、その“もしも”を考えたところで、もうどうしようもないのだと分かっていても。トレイの上で静かに眠る指輪にそっと指先を触れさせながら、シオンは薄く苦笑する。どうしようもないと、分かっていても。今更もう遅いのだと、分かっていても。

 それでも後悔から逃げることが、どうしても出来ない。



***



 ルーカスから送られてきた報告書によれば、王都に住まう錬金術師の間で、フロストバイトの調合にまつわる口伝は――疑わしいものも含め――ひとつも残っていなかったという。


 頼れるものは、山のようにある禁書のみに限られることとなったが、しかしその方法もまた随分と難航を極めていた。既に指の数以上もの書物を、数日かけて一冊一冊丁寧に検めたが、手掛かりになり得そうな情報は未だひとつも出てきていない。調合の術どころか、原料となる可能性のある植物さえ、ひとつも。


 口伝が残っていないということは、そもそも“フロストバイトを調合する”という術自体存在しないのではないだろうか――。そんな考えが頭を過ることは幾度となくあったけれど、しかしそうと判断するのは早計だろう、という気もまたしていた。手をつけていない禁書は、まだまだたくさん――気が遠くなるほど――あるのだから。地道な作業にはなるけれど、それら全てを検めるまでは、結論を口にすることは出来ない。


 ぱたん、と本を閉じる微かな音が耳に届き、シオンは紙面に落としていた視線を僅かに上げる。書架と同じ胡桃の木で造られた、どっしりとしたテーブルの向こう側に、閉じたばかりの書物を片手に眉根を寄せる男がひとり座っていた。ついさっきまでは、部屋の隅にあるシェーズロングで寝転んでいたはずなのに。いつの間にか眼の前に腰掛けていた男は、シオンと視線が交わるや否や、小さく苦笑をこぼす。


「これも外れだ」


 禁書を保管している部屋の鍵を開けるには、王族だけが持つ“神の力(マナ)”が必要になる。有形の鍵は、ひとつも存在していない。故にここで調査をするには、王族の一員である彼――ノアの存在は必要不可欠だった。彼がいなければ受付をスルーすることも出来ず、そもそもこの部屋への出入りすら許されない。


 最近夢見が悪いのはこの男のせいなのかもしれない、と、胸中で静かに溜息を吐きながら、シオンはそっと視線を逸らす。


「……執務に戻られた方がよろしいのでは」

「大方のことは片付けてあるから問題ない」


 問題がないようには思えないけれど、と、ここへ来る前に見たアデルの疲れ切ったかんばせを思い出しながらシオンは思う。王太子ともあろう人間が、半日もの間禁書室に閉じこもっていられるほど暇なはずはない。捌かなければならない仕事は山のようにあるであろうし、時には貴族との面会や会議もあるはずだ。こんなところで油を売っていて良い立場の人間ではない。


 しかし、当の本人はといえば、実に自由だ。正装どころか上着すら纏わず、白いシャツとズボンというなんともシンプルな出で立ちは、ここへ初めて来た時から少しも変わらない。けれども、そうでありながら流石は王族というべきか、彼の身に染み付いた上品さや威厳は決して失われることなく、絹のように美しい白髪に、長い睫毛に囲われた金色の瞳に、笑みを湛えた形の良い唇に、或いは書物に触れる指先やゆっくりと腰を上げるその動作にまでしっかりと滲み出ている。普通の人間では、こうはいくまい。


「そういえば、エミリー・モレッソの現場に残されていた小瓶についてだが」


 読み終えた書物を片手に螺旋階段へと向かうノアの後ろ姿を上目に見遣り、シオンはページを捲ろうとしていた手をとめる。


「彼女がいつそれを入手したのか、今のところ分かっていない。アルヴェンヌ家の馬車で帰宅してからは外出も来客もなかったと、同居していた同僚が証言している」


 つまり、エミリーが毒物を入手したのは、彼女が屋敷を訪れるよりも前だった、ということだ。

 しかし、彼女は決して疎い少女ではなかった。見ず知らずの人間から何かを受け取るような子でも、あまつさえそれを口するような子でも、ない。エミリーにはちゃんと危機感や警戒心というものが備わっていたはずだ。


 けれども彼女は、小瓶を持っていた。中に注がれているのが、猛毒の液体だとも知らずに。フロストバイトの入った小瓶を、持っていた。

 果たして誰が彼女にそれを渡しだのだろう。いつ、どこで、どのようにして。どんな甘言を囁いて、あの小瓶をエミリーに握らせたのだろう。


「中身を再鑑定させたが、やはりフロストバイトで間違いないそうだ」


 螺旋階段を登りきり、壁沿いに伸びる通路を歩んでいたノアが、不意に足を止めて振り返る。その顔には何かを企んでいるような、挑発的な笑みが滲んでいた。そのくせ、見下ろす金色の瞳はやけに真摯で、少しの濁りもない。


「何を仰りたいのですか」


 シオンの問いに、ノアはふっと吐息をこぼして目を細める。そうして彼は、彫り込みの美しい艷やかな手摺に指をかけると、微笑の滲んだ唇をゆっくりと開いた。


「――商会を、調べてみないか」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ