第十一話 禁書
禁書の保管された部屋は、二階の通路をひたすら突き進んで漸く辿り着く、館内で最も奥に位置する場所にあった。
精緻な彫り込みの施された荘厳な扉の前で足を止め、ノアは真鍮製のノブの上に設けられた、拳程度の大きさの黄色い宝石にそっと手を近付ける。美しい切子面の施された表面の奥には、薄く透けて見える複雑な形の魔法陣。恐らくは施錠用の、特殊な魔道具なのだろう。指先が触れた途端に、ぽうっとした淡い光が宝石の表面に浮かび上がり、そうしてまたたく間もなく、ガチャ、と鍵の開く鈍い音が聞こえた。
「好きに読んでくれて構わない」
開かれた扉を潜り、シオンは慎重な歩みで、ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れる。
明かりの灯された室内には、他の書庫以上に、古い紙の匂いが濃く漂っていた。けれども、それは決してカビや埃といった類のものではなく、長い年月を経て染み付いた“奥深さ”のようなもの、と言った方が正しいだろう。古ければ古いほど、それぞれの本には悠久の時とともに、たくさんの想いや歴史の断片が染み付いている。たとえそれが、人の目に触れることを禁じられた、悪しき書物の数々であったとしても。
「左側が宗教と文化、右側が政治で区分けされている。毒物関係は恐らく、左側に保管されているはずだ」
部屋の中央を突っ切るようにして敷かれた真紅の絨毯の先には、漆の塗られた艷やかな螺旋階段が設けられ、そこを起点に、手摺のついた通路がコの字型に両左右へ伸びている。天井には幾何学模様のフレスコ画と、四方を縁取るように取り付けられたアカンサスの金細工。正面と左右の壁は、階段と同じ胡桃の木で造られた重厚な書架が一面を覆い、中には無数の書物がびっしりと並べられている。丁重に扱われていたからか、それとも、何かしらの特殊な魔法が施されているからか。目につく書物はどれも、少しも色褪せていない。
「ああ、それと、右奥は残虐卑猥な描写を多く含む本が置いているから、見るのは辞めておいた方がいい」
そう言いながらアームチェに腰掛けたノアに視線を向け、シオンはそっと目を細める。意に気付いたのか、彼はくつくつと喉を鳴らして、愉快そうに笑う。
「君もさっき見ていたと思うが、この部屋の鍵は王家が受け継ぐ“マナ”そのものだ。それ以外の鍵は一切存在しない」
つまり彼が一緒でなければ、部屋へ入るどころか外へ出ることすら叶わない、ということだ。侵入者を防ぐ為に、恐らくは扉の開閉後すぐに自動で施錠がかかる仕組みになっているのだろう。禁書を厳重に保管するには、万一のことを考え、有形の鍵を敢えて作らないというのは、確かに理に適っている。
本来“マナ”とは、自然界が持つ大魔力のことを指す。代表的なもでいえば、四大貴族が持つ大精霊の魔力だろう。彼等は自然界を支配する四大精霊とそれぞれ契約を結ぶことによって、精霊の持つ大魔力を享受している。アルヴェンヌ家は火の大精霊と、ベレスフォード家は風の大精霊と。その為、直系であるシリルやアデルは、それぞれ火や風の魔法を扱うことが出来る。
しかし、王家が受け継ぐマナは、四大貴族の持つそれらとは一線を画す。彼等の身に宿るマナは、始祖である英雄王・ガリアンが、大魔王を討伐した際に女神・エリシエルによって授けられた“神の力”のことだ。正確には、天空を司る最高神との契約によって得た力、とされている。故にガリアンの血を受け継ぐ者は皆、最高位である雷神の力を享受することが出来る。世界中を探しても、それが可能なのは、ルヴェナビス王国を統べるヴェルティアス一族のみだ。それほど貴重である彼等のマナは、この世で最も強大な力とされている。
「……とても厳重ですのね」
そんな特殊な力でしか入出の許されない場所に、理由はどうであれ、所有者でない他人を連れ込むのは、やはり賢明ではないと思うのだけれど。胸中でひっそりと溜息をつきながら、シオンは早々にノアから視線を逸らして、螺旋階段へ向かって足を進める。「利害が一致した」という彼の言に、決して嘘はないのだろう。しかしどうしても、釈然としない。
――強いて言うなら、興味がある、ということくらいか。
ひどく愉しげに紡がれた言葉が脳裏を過ぎり、シオンは僅かに眉根を寄せる。王族に頼るつもりなど、微塵もなかった。彼等に頼るくらいなら、錬金術師を地道にあたってゆく方が余程良いとも思っていた。
――君が俺を敬遠していることは知っている。ただ、エミリー・モレッソの為に調査をしているのなら、方法の選択に私情を挟むのは得策でないと思うが?
卑怯な男だ、と、螺旋階段をゆっくりと登りながら、シオンは思う。分かっていながら、それでもエミリーの名を口にするのはとても卑怯だ、と。
しかし、彼の言っていることは何も間違っていない。見つける為の方法を狭めるというのは、多かれ少なかれ可能性を潰すということだ。情報源が少ない以上、そうするのは得策でない。そこに私情を挟むなど、本来は以ての外だ。彼の言っていることの方が正しい。正しいからこそ、余計にシオンの感情を逆撫でる。
「それで、君はフロストバイトの何を調べるつもりなんだ?」
階段を登りきったところで声をかけられ、シオンは手摺に片手を添えながら階下のノアに視線を落とす。本来王族を見下ろすなど許されることではないが、しかし彼は少しも気にした様子もなく、シオンの双眸を心做しか愉しげに見上げている。
話すべきか、話さないべきか。ほんの一瞬だけ逡巡し、シオンは小さく溜息をつく。
「……調合方法ですわ」
「調合方法? あれは蔓植物の花から抽出される成分だろう?」
静謐な室内に靴音を響かせながら、シオンは悠然とした歩みで通路を左へ曲がる。
「殿下の仰る通り、一般的にはそのように認識されていますわ。けれど毒を作る方法は、一つの原料から成分を抽出するものだけではないのです」
原料である蔓植物の流通に異常が見られなかったから――というのは敢えて口にせず、シオンは赤い絨毯の敷き詰められた細い通路を、壁に並べられた無数の背表紙を注視しながらゆっくりと進む。
目的の書物は、既にルーカスの手によって幾つかの分類ごとに選定されていた。有毒植物だけを取り纏めた図鑑、毒の調合方法を記した書物、大昔の大錬金術師が記したという曰く付きの学術書。
目録もないというのに、数多存在する禁書の中から、ルーカスがどのようにしてそれらを選ぶことが出来たのかは、謎である。最近禁書に指定されたものなら兎も角、百年以上も昔に隔離された書物を、いったい何故彼は知っていたのだろう。
しかし、彼のその知識がなければ、今頃巨大な書架の前で呆然と立ち尽くすことになっていたに違いない。壁一面の書架に詰め込まれた書物は、それほどあまりに膨大すぎた。
「二つ、或いはそれ以上の成分を混ぜ合わせることで、フロストバイトを生成しているのではないか――ということか」
「……あくまで可能性の話ですけれども」
書物の名は敢えて紙に書きつけず、頭の中にしっかりと刻んでいた。その記憶を頼りに左端の書架の前で足を止め、目についた臙脂色の背表紙に手を伸ばす。どうやらこの一帯が、毒にまつわる書物の保管場所であるらしい。
更に三冊隣にも目的の本を見つけ、シオンは細心の注意を払いながらそれをそっと抜き出した。今度は数段上の列に視線を移せば、そこにもまた記憶の中の題名と同じ書物が目にとまり、シオンは踵を上げて手を伸ばす。しかし指先は、背表紙の端にすら届かない。足りない分を補うように更に踵を上げ、シオンは思いっきりぐっと腕を伸ばしてみる。重心のかかる爪先が、少しだけ痛い。
けれど、どれほど頑張ってみても、爪の先すら背表紙に届かなかった。仕方なく諦め、シオンは踏み台を探すべく踏ん張りを解こうとしたした、その時。不意に背後から現れた大きな手が、頭上を通って視界に入り込む。まるで影に呑まれたみたいに、辺りがたちまち薄く陰る。
その瞬間、どくり、と心臓が激しく跳ね上がった。
「これで良いのか?」
背中のすぐ傍にある気配が、身体中からたちまちぬくもりを奪い取る。吸い込んだ息が喉奥に詰まったまま、出てこない。伸ばした手が、色付いた指先が、微かに震えている。鼓膜の裏には幾つも折り重なった甲高い悲鳴と――熱い、灼熱の炎。
詰めていた息を解くのに、随分と時間がかかった。強張った身体から力が抜けてゆくのにも、見開かせた目をゆっくり瞬かせるのにも。
「……ありがとうございます、殿下」
乾いた声で礼を告げ、シオンは半歩退いて、差し出された本を受け取る。新緑色の表紙のそれは、有毒植物だけを取り纏めた図鑑の一つで、五十年ほど前に禁書指定されたものだ。その類の図鑑の中では、最も新しいものだという。
「それにしても、手当たり次第……というわけではなさそうだな」
シオンの抱えた本を見下ろし、ノアはひょいと片眉を上げる。怪しまれているのだろう。あまりに迷いのない手つきだったせいで。
しかし、すぐさま適当な言葉を繕う余裕は、今のシオンには少しもなかった。かたく唇を引き結んだままノアから顔を背け、古い書物の並ん棚へ視線を移す。心臓は、まだ煩く鳴っていた。嫌な感覚が――彼の気配が――未だ背筋にこびりついているような気がして、ひどくおぞましい。
「まあ、何でもいいさ」
少し間を置いて、ノアは小さく笑った。ふっ、と漏れるような、やわらかな笑み。そうして彼はシオンの手から書物を一冊奪い取ると、彫り込みの美しい手摺に悠然と寄り掛かった。
「……殿下」
「そう不機嫌になるな。べつに君の手伝いをするわけじゃない。俺は俺で調べるというだけだ」
王太子ともあろう人間が、と思いかけ、シオンは小さく息をつく。何を言ったところで、きっと無駄なのだろう。そういう男なのだと、今は諦める他ない。
厄介な人物に目をつけられてしまったことを苦々しく思いながら背表紙を視線で撫で、シオンは再び、目についた書物へゆっくりと手を伸ばす。