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プロローグ

 絶望の鐘が鳴っている。軍服に包まれた胸をひと思いに突き破り、今にも爆ぜてしまいそうなほどの苛烈さで。何度も何度も、執拗に。鐘声に押し出された血潮はひどく冷たく、枯渇した酸素を求めて唇を開けば、その僅かな隙間から、白く色づいた吐息が暗闇に立ち上る。


 街道に馬の足音が響く度、耳を劈く轟轟とした風の音は、まるで悪魔の囁きのようだった。或いは、高らかに吐き捨てられる、冷酷な嘲笑。急いだところで無意味だ、と。待ち受けているものは何も変わらない、と。鼓膜を揺さぶる嘲りを、しかし男は舌打ちとともに破り捨て、手綱を握る手に力をこめる。きっと何かの間違いだ。間違いに決まっている。間違い以外に有り得ない、と。体中に鳴り響く鐘声と同じだけの咆哮を、幾度も胸の内に轟かせながら。


 夜の帳に包まれた中央広場を横切り、メインストリートへと繋がる裏路地を、愛馬を鼓舞して駆け抜ける。今は一分一秒が惜しかった。ひたすら前だけを見つめ、そこここに漂う泥のように濁った暗闇を蹴散らしながら、ただただ一心不乱に路を突き進む。それだけしか出来ないことが、もどかしくてたまらなかった。移動魔法を使えないことを、これほど悔やんだことはない。


 逸る気持ちを抑えながら最後の角を曲がったところで漸く、遠くの方に、ぼんやりと紅く色づいた何かが見えた。その瞬間、男の心臓が、一際大きく跳ね上がる。呼吸が途切れ、手綱を握る手が震えた。その振動は腕を通り、肩を通り、首を通って、唇を震わせる。


 ――嘘だろ。微かに漏れたか細い声は、風音に掻き消され、誰の耳にも届くことなく夜気の中に溶けて消えてゆく。辺りは異様なほど静かだった。不気味なほどの、冷たい静寂。それ故に、風に混じった悪魔の嗤い声が、否が応でも鼓膜に突き刺さる。


「退けっ! そこを退けっ!」


 幅の広い路いっぱいに広がる無数の野次馬を蹴散らし、男は慌ただしく馬をとめ、びっしょりと濡れそぼった地面へと飛び降りる。周囲を見回せば、数十人もの人間が集っているというのに、誰も彼もが言葉一つこぼさず、ただ茫然と上空を見上げていた。泣くことも、叫ぶことも、慌てふためくこともなく。まるで魂の抜かれた人形のように、じっと。月明かりよりも強く、紅く照らされながら。


 男は唾を飲み、革手袋に包まれた手を、ゆっくりと握り締める。振り返ることが、恐ろしくてたまらなかった。そこには“現実”しかないのだから。何にも縋ることが出来ない。何処にも逃げることが出来ない。振り返れば最後、一縷の望みは忽ち断たれてしまう。


 それでも、振り向かないわけにはいかなかった。動かないわけにはいかなかった。

 男は唇をきつく噛み締め、意を決して、背後を振り返る。そうする最後の最後まで、神に救いを求めながら。


 ――けれども神は、そんな彼の縋りを、無慈悲に見放した。


 ひゅっ、と喉を鳴らした男の眼前で、巨大な炎の塊が、夜空をも呑み込みそうな勢いで激しく燃え盛っている。美しく手入れされていた庭も、荘厳だった純白の建物も、何もかも。嘗ての面影は、もうどこにもなかった。激しい炎と、もくもくと立ち上る黒煙に、全てを呑まれて。


 ――何故こんなことになってしまったのだろう。


 眼の前に突きつけられた惨憺たる現実に愕然としながら、男は建物の最も高い位置に飾られた紋章にゆっくりと目を向ける。弓を手に凛々しく馬に跨る騎士の像は、この国で王家に次ぐ貴い一族の象徴だ。穢れなく、常に真っ直ぐ清らかに生きてきた崇高な一族の、彼らだけに許された証。


 それが今、どす黒い煙の中に消えようとしている。多くの人々の、驚愕に染まった幾つもの視線を一身に受けながら。どれほどの歴史があろうと。どれほどの権威があろうと。どれだけの功績があろうと、そんなものまるで関係なしに。轟々と音を立てて、それは呆気ないほど簡単に、散り散りに消えてゆこうとしている。


 ――それは、建国以来千年以上もの長きに渡り王国の発展に貢献してきた四大貴族の一角が一夜にして跡形もなく滅亡するという、歴史的な瞬間だった。


 聖暦1528年、冬。エイヴァリー公爵家、断絶。


 後に歴史書へそう記されることとなった凄惨な事件は、多くの人々の運命を、大きく狂わせることとなる――。

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