魔女とアクジキ
魔女とアクジキ
鬱蒼とした森の奥の奥、高い山々が連なる森林限界の際、岩肌と、崖と、林しか周囲にない、野生動物と魔物獣が闊歩する、およそ人の生活には不向きなその場所に、魔女zxcの住む塔はあった。
高山の中腹に聳えるその塔の最上階は雲が見下ろせるほどで、気温は凍てつくこともあるほど低かったが、ラリにはどうということもなく、今日も自身の研究に没頭していた。
――だというのに、吹き荒ぶ風の中にかわいいかわいいアクジキの風切音が混じったのを耳聡く聞き分けて、ラリはため息ひとつで研究を中断した。
やれやれ、と肩をすくめて実験器具や書付を棚に仕舞い込み、鍵をかける。
宙を撫でるように指をひとふり、とっときのクッキーを取り出し、お気に入りの薬湯を淹れ始める。
薬缶から最後の一滴が落ちたところで、いつものように騒々しい足音が聞こえ、次いでいささか乱暴に扉が開く。
「ラリ―! 聞いてヨー!」
「はいはい、おかえり」
「タダイマー!」
「またなんだね」
「セーラクケッコで、コンニャクハキで、ワナにはめられたんダー!」
「政略結婚に婚約破棄ね。
まずは落ち着きなさいな」
「ウン……」
ぴすぴすと鼻を鳴らすアクジキはラリに宥められ、両手で大事に抱えていた魂をラリに預けた。それから開け放した扉をきちんと閉め、洗面所に行って手洗いとうがいをして、礼儀正しく椅子に腰掛けた。
「落ち着いたかい?」
「ウン……」
大きな体をちんまりとさせて、アクジキは肯いた。
形はラリよりもよほど大きく育ったが、中身はいつまでも子猫のようにかわいらしい。
ラリは預かっていた魂をアクジキの両手に返し、風で乱れたアクジキの毛並みをブラシで梳いて整えてやった。
アクジキはその昔、ラリがこの塔に住み始めたころ、たまたま拾った卵から孵った生き物で、分類上はおそらく悪魔である。
名前の由来は読んだ字の如く悪食だからで、ラリが腕によりをかけて作ったどんなご馳走も「おいしくなイ……」と涙ぐんで食べる有様だったので、アクジキが自分で食事を用意できるようになるまで苦労したものだ。
けれど、そんなアクジキが万が一にも飢えたりしないよう、今もアクジキのために開発した特製ふりかけはいつでもたっぷりと用意してある。
そんなラリのかわいいかわいいアクジキは、ラリより背丈も横幅も大きく、目玉は暗闇で光り、牙も爪も鋭いため、人里ではよく怖がられている。
だが、背中に生えたちんまりとした羽根はかわいいし、性根もまるでやんちゃな子犬のようなアクジキがラリはかわいくてかわいくて仕方がない。目に入れても痛くないほどだ。
弟子ばか、ペットばかになる魔女たちを馬鹿にしていたラリだったが、初めてアクジキを抱いて一緒のベッドで寝た翌日は、謝罪行脚も兼ねてうちの子かわいい自慢をしに行ったくらいだ。
そんなわけで、アクジキを拾う前とは打って変わって、滅多に人とは関わらない生活が遠のいて久しい。
アクジキとくれば哀れな人間の魂を見つけてはラリのところに連れてくるのだ。
この慈悲深さは誰に似たのだろう。こんなに良い子に育って、とラリはいつも感動している。
「それで? 今回はどんな哀れな子を拾ってきたのかな?」
すんすん、と鼻を鳴らすアクジキの両手の上で、淡く金色に光る魂が震えた。
***
わたくしは伯爵家の次子、長女として生まれました。
父も母も兄もやさしい人達でした。家族だけではなく、周囲の人達もみんなやさしい人達でした。
わたくしが十二のとき、両親が事故で亡くなりました。
兄がまだ成人していなかったため、伯爵代理として叔父が後見人となり、叔父夫妻といとこたちがわたくしたちの邸にやってきました。
それからです。波のように不幸が押し寄せてきました。
かわいがっていた犬が死にました。
よくしてくれていた使用人たちが次々に辞めていきました。
家の居心地がどんどん悪くなっていきました。
友達とも疎遠になっていきました。
お兄様と二人で部屋に篭りがちにならざるを得なくなりました。
叔父夫妻やいとこたちに物を取り上げられました。
父からもらったものも、母からもらったものも、すべて。
かつて将来を約束した婚約者も、いつの間にかいとこのものになっていました。
残ったのは思い出だけでした。
僕が成人して家督を継ぐまでの我慢だよ、がんばろう、と励ましてくださったお兄様も亡くなってしまいました。明日には成人でしたのに。
わたくしは悲しむこともできませんでした。朝には元気に挨拶をしたお兄様が、夜には事故で冷たくなってしまうなんて、信じたくありませんでした。
お兄様の葬儀の翌日に、葬儀代が嵩んだから、とわたくしと年上の商人との婚約を結ばれたことを伝えられました。
お兄様の葬儀にそこまでのお金がかかっていたなんて知りませんでした。何もかもが最低限であったのです。次期伯爵とは思えないほどの簡素さであったのです。粗末とさえわたくしは思ったのです。
叔父にそう言えば打たれました。義叔母にも、いとこたちにも。
わたくしは命の危険を感じました。
窮状を訴えようと家を抜け出し、着の身着のまま、無謀にも王都を目指しました。
その途中で出会った心やさしい方がわたくしに同情し、助けてくださいました。
そうして王都に着いたわたくしは、叔父たちが両親の遺産を使い込んでいたことを知りました。
お兄様に家督を譲る気などなかったことを知りました。
借金のかたに私を高利貸しに売り飛ばそうとしていたのを知りました。
――ですが、死んだ伯爵の娘でしかない私では、伯爵代理として権力を振るう叔父に力及ばず……。
賂のひとつも用意できない私では。
けれど、最期までわたくしのことを信じてくださった方がいましたから、今は心穏やかでいられます。
***
「うわあ……。ううむ、今回もひどい……」
「ソーだヨー! カワイソだヨー!」
「そうだね、可哀想だね」
ラリは心の平穏を保つためにアクジキの腹に顔を埋めたまま深呼吸をした。すうはあ、うちの子、お日様の匂いがする。
あんまりにもあんまりな、胃もたれしそうな話に、今日のおやつもご飯もあっさりしたものにしようと決める。嗚呼、人里怖い。
「ハア……、アクジキのモフモフは最高だね……。
それで、あなたはどうしたい? 復讐したいなら手伝ってあげるけど。
……しなくていいの? ……次の生は幸せになりたい? それはそうだよね。……本当に復讐しなくていいの?
そう……良い子すぎる……」
「なんとかしてヨ、ラリー!」
「はいはい、わかったわかった」
涙ぐむアクジキの目尻をタオルで拭ってやり、ラリは棚から中身の詰まった薬びんやら、古めかしい護符やらを取り出す。
ふよふよ浮かぶ小さい魂に薬を振りかけたり、呪文を浴びせて護符の効果を付与したり、と一通り術をかけてやった。
「とりあえず幸運の加護と不運の忌避と……これでよし。
あとは転生先の環境ね……。取り立てて裕福ではないけれど、やさしい両親にやさしい兄と姉ね、うん、水鏡で視た限り悪くはなさそう。
でもいちおう、豊作の加護と、病害虫、害獣忌避を付与しておくね……よし。山奥だから重宝されるでしょう。
これで次の人生は少なくとも罠に嵌められたりしないし、大切な人達と故意に別れさせられたりしないから、安心して輪廻の輪に還りなさいな」
「バイバーイ! シアワセにネー!」
小さな魂から最大限の感謝を受け取ったアクジキは上機嫌で天に昇っていく魂に手を振る。
それに付き合ってラリも魂が見えなくなるまで手を振ってやった。
「さて、君はどうするんだい、アクジキ?」
「ウン、悪人のタマシイがいっぱいあったから、おショクジにいクー!」
「だよねえ、なにか手伝いは……」
「ヒトリでダイジョブー!」
「そう……」
答えは分かっていたのだが、手伝えることがあるなら手伝ってやりたかった親心だ。ラリは少しだけ残念に思う。
しかしアクジキの自立を邪魔しないためにラリは一緒に行きたい気持ちをぐっと抑えた。
「気を付けて行って来るんだよ。人間はやりすぎると攻撃的になる生き物だからね、なるべく息の根はすぐ止めてやりな。できるだけ首謀者周りをだけを食べるんだよ」
「ハーイ!」
「もしも人が君を攻撃してきたらすぐに帰って来て言うんだよ。うらが全部すり潰してやるからね。それから……」
「いってきまース!」
「あ、話はまだ……いってらっしゃーい!!」
注意事項の途中で元気よく飛び出して行ったアクジキにラリはがっくりと肩を落としたがすぐに持ち直す。落ち込んでいる場合ではないのだ。
「はあ、やれやれ。あの子がいつお土産を持って帰ってきてもいいよう、準備しておかなきゃね。悪人魂ふりかけの新しい瓶と、それから……。
ああ、心配だなあ。この前もアクジキがちょっと国王を食べたからって騒いでさ……」
いそいそと階下に降りていくラリの研究は、その日もさっぱり進まなかった。
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